トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 画餅 3

この様に仏道における理解というものは頭による理解ではないから、ほんの一つの具体的な事柄についてその意味が解ってしまった場合には、この世の一切の事についての理解がついてしまうと言われているのである。ほんのわずかな事柄についての理解がつくという事は、いま眼の前にある具体的な事物が持っている。外見や様子を否定するという理解の仕方ではない。またこの世の中の全てのものと対立させて、全体の上における一部という理解の仕方をする考え方でもない。

また個々の事物それぞれが絶対の存在であって、何物とも対峙していないと言う理解の仕方をする事でもない。また無理に頭の中で考えて、一切の事物が独自の存在であって対峙する何もないという考え方を無理にとるという事は、その個々の事物が独立独歩のものではなくて、何らかの形で他のものから障害を受けて相互に妨げ合っているという事情に他ならない。

物事を十分に理解するという事が物事を十分に理解するという事態を自己限定して如実に表れた場合に、ほんの一つの事について理解ができたという事がこの世の一切のものについて理解ができたという事でもある。一つの事が分かったという事はまさに具体的な個々の物についてわかったという事ではあるけれども、その様な形で個々の具体的なものについてわかったという事が、実は宇宙全体についてわかったという事に他ならない。

※西嶋先生解説 
ここの最後のところは、道元禅師が哲学的な「ものの考え方」においていかに優れていたかという事の具体的な証明になるわけであります。こう言う様々な立場からの論議というものは、今日の西洋哲学において初めて考える事が出来るようになったものの見方でありますが、道元禅師はて7、800年前にすでにこう言う考え方を綿密にやっておられた。

しかもそれが道元禅師の力量だけではなしに、釈尊以来代々の祖師方が仏道を勉強する場合には、必ずこの様な縦から横からの「ものの考え方」で、この世の真実を捉えてこられたという事が言えるわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
今日のところは、多面的にものを捉えるという事ですね、原始仏教の頃からそういう・・・。

先生
そういう事です。それはどういう事かと言うと、もっとも多面的なものの理解の仕方と言うのは坐禅の態度なんです。坐禅をしている時の態度は、頭の中でどう考える、こう考えると言う事でなしに、ジ-ッと坐ってすべてを照らしていると言う態度になるわけです。そういうすべてを照らす態度が、こういう理論的に言葉で表現するならば色々な角度から、何回も同じ事を説くという事につながるわけであります。

だから仏教の基本的な考え方と言うのは、常にそういう多面的な捉え方。その多面的な捉え方を原始仏教では四つの考え方(四諦)として説明しておられるという面があるわけです。ですから仏道というものを説く場合には、一面的な思想を説く限り仏道ではあり得ない。様々な角度から一つの問題を説いて初めて仏道というものが成り立つと、こういう事が言えると思います。 


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


   

正法眼蔵 画餅 2

「画餅」の巻、本文に入ります。

仏教界において真実を得えられた方々が、単に口先だけの論議ではなしに具体的な体験を通して仏道を身につけているという事があればこそ、この世の中にある様々の事物も現実のものであり架空のものではない。真実を得られた方々の現実の体験に伴って様々の事物も現にこの世の中に存在するのであるけれども、それぞれの様々の事物というものは単に一つの共通の性質、共通の実体というものでまとめ得るものではない。

我々の住んでいる世界の実態というものは千差万別であり、実体を具えたものである。その様に我々の住んでいる世界というものは、たった一つの本質とか、たった一つの魂というもので総括できるようなものではないけれども、我々が現実にそのような世界というものを体験していく場合には、個々の体験、瞬間、瞬間の体験というものが、相互に邪魔することなく、具体的にこの現実の世界に現れてくるのである。


そしてそのような具体的な世界が現れてくる時点においては、具体的な現実というものがお互いにぶつかり合うことなしに、現実の世界に現れてくるのである。これこそが釈尊以来代々の祖師方によって説かれてきたところの極めて簡潔な教えに他ならない。

頭の中でこの現実の世界を考えて、精神的にこの世の中を全部一まとめに理解しようとする考え方や、この世の中は個々の事物が存在する世界だと言う事で個々をばらばらなものとして捉える考え方があるが、この両方の極端な考え方のどちらかを使って、あるいはその両方を使ってこの世の中を推測する事が仏道を学ぶ上での力だと考えてはならない。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
2、3日前に○○さんと言う方の書いた本を見たら、臨済禅と曹洞禅の違いが書いてありました。臨済禅ではトレ-ニングのために公案を持ち出すというやり方でスパルタ的だと言っております。ハッキリ言えば、臨済禅はインテリで曹洞禅はポピュラ-であると。そう書いてあったんですが、坐禅そのもののやり方も違うんでしょうか。臨済禅は「只管打坐」じゃないんですか。

先生
私は臨済禅と曹洞禅は同じだと見ていません。それはどういう事かと言うと、○○さんが臨済禅はインテリの宗教だと言ったとすれば、まさにその通りだと思う。仏教はインテリの儚さを感じて、何とかしなくてはならないと言う事で生まれた思想ですよ。だから自分はインテリだと言う事に自信を持って生きていけるのであれば、それは結構だけれども、釈尊の教えとは別だと言う事、これはハッキリ言える。

まあ、非常に面白い話だけれども、○○さんが仮に自分たちの宗教はインテリの宗教だと言ったとしたら、まさにその通りだと思う。ただ仏教と言うのは頭の中でものを考える事がいかに儚いかという事に気がついて、それ以外の真実が欲しいという事で始まった教えですよ。だからインテリの境涯に留まっていると言う事で満足できるんだったら、坐禅は要らないし、仏教は要らないんですよ。

質問
だってあの人たちの宗教だって、みんな釈尊の教えを追及している訳ではないんですか。

先生
私はそう見ていないです。いわゆるインテリの宗教は仏教ではありえないと言う事を私は感じている。それはどういう事かと言うと、仏教には理論があるんだけれども、その理論は普通の理性で考えられた理論の範囲を超えているんですよ。つまり実際に実行する事も含めて、理論をもう一度組み立てたと言うのが仏教です。だから、実際に実行する事と関係なしに組み立てられた理論と言うものは「仏教ではない」と言う事が言えるわけです。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


正法眼蔵 画餅 1

「画餅」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

この画餅という言葉はどういう意味かと言いますと、画にかいた餅と言う意味であります。画にかいた餅と言うのがどういう事を意味するかというと、画に画いた餅は食べる事が出来ない。非常に胃の丈夫な人が仮に食べたとしても、それが栄養になるという事はないと言うのが画に描いた餅という事の本来の意味です。ですから仏教においては、この画にかいた餅と言うのは普通は言葉で表された教えという事で、言葉で表された教えと言うものは、本当の意味で我々の現実生活には役立たないという主張がある訳であります。

我々はふつう物事を考える場合には、言葉で説かれた教えが大切でそれが日常生活に役立つと信じている訳であります。ただ、仏教の立場というのは、言葉の説明も決して無意味ではないが、言葉の説明だけが絶対のものであると考えると、我々が現に住んでいる現実の世界の実態と言うものを見誤る恐れがあると主張する。

その点では言葉と言うものの持っている限界を理解した教えが仏教哲学だと、こういうふうに言う事が出来るわけであります。そういう点では、文字や言葉と言うものは何らかの限界を持っていて、我々の人生を説明するためには完全なものではないと言う主張がこの「画餅」と言う言葉の中に含まれている訳であります。

道元禅師もその「画餅」と言う言葉を使われてこの巻を説かれた訳でありますが、道元禅師はさらに一歩進めて、ふつう仏道では最終の絶対的な価値を持つというふうには考えていない言葉や文章というもの「画にかいた餅」と言う言葉に譬えられるところの抽象的な議論が、実は仏道における真実を述べる力も同時に持っていると、こういう事も主張されている訳であります。

道元禅師は、たとえば仏教においてよく言われる不立文字・教外別伝と言う思想に必ずしも賛成しておられない。不立文字・教外別伝と言うのはどういうことかと言いますと、文字によって仏道を説明する事はをやらない。それから文字や言葉によって言葉によって示された教えの他に、仏教においてはもっと大切な教えが別に伝えられていると、こういう主張が不立文字・教外別伝という言葉の意味であります。ところが道元禅師は、この不立文字・教外別伝と言う思想が本当の意味の仏教思想でないと言う主張をしておられる訳であります。

それでは道元禅師はどういう主張をされたかと言うと、確かに仏教と言う思想は実際に坐禅をして我々の生活を規制していくと言う修行の面、もっと具体的に言うならば坐禅という非常に大切なものがあるけれども、それと同時に事葉の説明も必要であり大切だと言う事を主張された訳であります。

ですから、不立文字・教外別伝と言うような事を述べて、すまして、理屈はどうでもいいんだ、文字はどうでもいいんだという主張に対して道元禅師は賛成しておられなかった。だから「画にかいた餅」と言う表現で、言葉を軽く見、文章の意味を余り重要視しない考え方に対する批判も、この「画餅」の巻の中には同時に入っている訳であります。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


正法眼蔵 道得 14

雪峰義存禅師と庵の主人である僧侶の説話について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。雪峰義存禅師は庵の主人がはたして力量があるかどうかを実際に検討したのであるし、また庵の主人は雪峰義存禅師に直接お目にかかった。そして真実を言い得たか、真実を言い得なかったか、その辺は問題外として、具体的に庵の主人は雪峰義存禅師によって頭の髪を剃られたし、雪峰義存禅師は庵の主人の頭の髪を剃ったのである。

この様な雪峰義存禅師と庵の主人との説話から推察できるところは、仏道の真実が何であるかと口に出して述べる事が出来る優れた友人というものは、特に期待していなくても突然現れてくるものであると言う事が知れる。この例で言うならば、庵の主人はたった一人で仏道修行の生活をしていたが、雪峰義存禅師のような優れた師匠がわざわざ訪ねて来て、問答を仕掛け、またその問答に付随して頭を剃る事が行われた。

そしてこの庵の主人は特別に言葉で質問に答えた訳ではないけれども、雪峰義存禅師は庵の主人の実体をよく知り、また庵の主人は雪峰義存禅師の偉さというものを十分に知るというところがあった。雪峰禅師禅師にしても、庵の主人にしても、特別に期待していた訳ではないけれども、お互いにその真実を知り合うところの友達に巡り合ったという事ができる。

この様に、友人を十分に理解する仏道の学び方をしているならば、真実を述べると言う事が現実の問題として必ず達成できるものである。
             
             「正法眼蔵道得」
             1242年旧暦10月5日
             観音導利興聖宝林寺において衆僧に説示した。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「やらなきゃならない時にスッとやればそれでいい」と言うのは、こだわりなくやればそれはそれでいいわけですか。

先生
うん、そういう点ではそういうこだわりを乗り越えるためにやるのが坐禅だと言える。坐禅を離れて頭の中で考えていると、さてどっちにすべきか、こうあるべきだと言う事になったり、そう言うこだわりは捨てるべきだと考えてみたり、どっちにしても素直な行動が取れないんです。我々が現実の中の生活で必要なのは、素直な行動という事です。「素直な行動をとるにはどうしたらいいか」と言う一つの方法として坐禅があるわけです。

坐禅によって色んなものの考え方に縛られている状態から脱け出す事、あるいは従来の習慣から抜け出すという事が出来れば、自由自在に動ける様になるわけです。自由自在になった人を仏と言うわけです。だから仏になるために坐禅と言う修行法があると言う事になる。坐禅をしている時が仏になった時だと言う事であるわけです。そういう仏と言うものが身について来ると「こうしなければならない、ああしなければならない」と言う理屈はもう何処かへ行ってしまう訳です。

ただ目の前にある「これをやらなくてはならない、あれをやらなくてはならない」と言う事が、素直に出来る様になるわけです。そんな人生はありえないという考え方もあるが、そういう人生が一番幸福なんです。ところが普通はそうは思わない。色々と本を読んで、理屈をこねて、ものがわかったわからないと言う事に非常にこだわりを持つから、日常の人生を楽しむと言う事が出来なくなってしまう。そういう事があると思います。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


 

正法眼蔵 道得 13

雪峰義存禅師と庵の主人である僧侶の説話について道元禅師の注釈は続きます。

庵の主人もすでに真実を十分わが身に体得していたところから、雪峰義存禅師の言われた言葉に助けられ茫然とせずに済んだのである。すなわち庵の主人は、仏教徒の仕来り通りに頭を洗って雪峰義存禅師の前に現れたのである。この庵の主人の態度は、釈尊ご自身の智慧と言えども至り得ないほどの優れた真実のやり方であって、まさに仏がその現実の姿を現した様子と言えるであろう。

まさにその様な態度によって釈尊の説かれた教えを説いたと言う事であり、まさに生きとし生けるものを助ける行いに他ならないであろう。しかもその事は、特別に世間の人の目を驚かせるような事があったわけではなくて、ただ頭を洗ってその場に現れたまでだと言う事であろう。この様な場合にもし雪峰義存禅師が仏道の修行において十分な境地に達した人でないならば、剃刀を放り出して大笑いするであろう。

ところが雪峰義存禅師はまさに仏道修行に関する力量を具えておられたし、仏道の真実をはっきりと掴んでいた人であったから、即座に庵の主人の頭を剃ったのである。まさにこの情景というものを考えてみると、雪峰義存禅師も仏道の真実を得た仏であったし、また庵の主人も仏道の真実を得た仏であったからこの様なやりとりが行われたのである。雪峰義存禅師も庵の主人も共にはっきり仏道の真実を得た人でなかったならば、この様なやり取りは行われ得なかったであろう。

両者がいずれも龍に譬える事の出来るような立派な人物でない限り、この様な事は行われ得なかったであろう。黒龍の顎の下にあると言われている価値の高い珠は黒龍にとっては非常に大切なものであって、決して誰にも渡したくない宝で常に警戒を怠っていないのであるが、その宝がどうやったら手に入るかという事を理解している人のためには、非常に価値の高い珠を与えてしまうものである。



              ―西嶋先生の話―


なぜ坐禅を釈尊が勧められ、達磨大師が勧められ、道元禅師が勧められたかと言うと、仏教を理論だけで勉強しようと思ったら難し過ぎてわからない。坐禅があればこそ、自分の足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っていればこそ、理屈ではなしに「ああ、これか」と言う事がわかるわけです。「ああ、これか」という事が気がつかなくても、自分の体そのものが法(宇宙秩序)と一体になってしまって、否応なしに法に従って生きていく。 

その事が坐禅をやりながらの生活の実態と言う事になるわけです。だから「正法眼蔵」が難しいと言って決して心配する必要はない。「正法眼蔵」が一文字もわからなくても、坐禅さえやっていれば自分自身が仏道と一体になってしまう。自分自身が仏になってしまう、これが仏教の基本です。

思弁哲学から実践哲学に転換したと言う事が釈尊の教えの基本です。ですから、坐禅をやらないで仏道を勉強しようと思ってもこれは無理。饅頭を食べないで饅頭の味を知ろうと思うのと同じ事で、そんな難しい事は人間の能力をはるかに超えている。それと同時に饅頭さえ食べていれば、説明書きは読めなくても饅頭の味はわかる(笑)。だから説明を読むよりも、饅頭を食べる事に専念する方が仏道を身につけると言う事でははるかに早い。そういう問題があろうかと思うわけです。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-