トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行持(上) 3

この宇宙というものは、われわれ人間が行動する時に初めて実在としての意味を持つ。

この基本的な考え方とは、あらゆる方角に広がっている一切の大地、一切の空、一切の世界というものがすべて、自分自身の清い行いや戒律の保持によって大きな影響を受ける。

※西嶋先生解説
この事は、人間が一人で正しい行いをやるならば宇宙全体が正しくなり、人間が清い行いをするならば宇宙全体が清くなるということを言っておられるわけであります。常識的に考えると、「そんなことはあるかなあ」というふうに首を傾げるわけでありますが、人間の行いというものはそれほど尊いもの、人間の行いがあればこそ宇宙もやっと存在するという、人間の行いによって宇宙が存在の意味を持ってくるという関係もあるわけであります。

道元禅師の注釈に戻ります。
自分自身以外の客観的な世界がその事情というものを承知しているわけではない。また自分自身にその事情というものがわかっているわけではない。しかし客観的に眺めるならば、自分自身の行いが宇宙を有らしめていると言う事も疑いようがない。

この様な関係から、過去において真実を得られた沢山の仏教界の諸先輩が清い行いをし戒律を保持された事によって、我々が今日行うところの清い行い、戒律の保持というものが現実の世界に姿を現して来るのであり、我々が清い行いをし戒律を保持する事によって、釈尊の説かれた偉大な真実というものが生活のあらゆる場面に行き渡る事ができるのである。

そしてまた逆に、今日我々が清い行いをし戒律を保持すればこそ、過去における諸先輩の清い行いや戒律の保持というものが本当の意味を持って来るし、過去において真実を体得された様々な方々の真実を得たと言う事の意味も、我々が現に清い行いをし戒律を保持していればこそ意味を持ってくると言う相互の関係があるのである。両者の関係と言うものは繋がっていて、中断することがない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
子育てが一応終わって、今まで自分は子育てを一所懸命やってきたけれども振り返ってみると空しい感じになっています。そういう人たちが仏道を求めたきた場合に、どの様なお話をしてあげればいいのでしょうか。
      
先生
話では空しさは解消しないね。どんないい話を聞いたって空しさは解消しないよ。やっぱり坐禅をやる事しかないね。いや、これは本当に私はそう思う。まさに我田引水だけどね。私は腹の底からそう思う。と言うのは、話で知識を注ぎこんでも決して空しさはなくなるもんではないんです。だからよく仏教講話というのが行われていろんな会がありますけれどね、私は人生に対するプラスというのは殆んどないのではないかと思います。

迷いを増すばかりだと思います。やっぱり坐禅と抱き合わせでなければとうてい意味がないもんだと思います。だから子供を育てる事を終わられた方も何によって生甲斐を感じるか。それは坐禅です。足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッとしている。理屈ではなしに 何となく「何で自分が子供を育てた事に意味があるか」と言う事を体全体で感じる事です。その方がいいんじゃないかと思います。その方が、本当の意味の解決になると思います。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


正法眼蔵 行持(上) 2

行持の巻、本文に入ります。

仏教界においては昔からたくさんの真実を得られた方々がおられ、真実を得られた方々が主張され実践された偉大な真理には、例外なしに最高の行持(清い行いと戒律の保持)というものがある。その様な真実と言うものが初めと終わりとが繋がって一つの輪になって、それが常に展開されて決してなくなるという事がない。

真実を知りたいと言う気持ちを起こし実際に仏道修行をし、そして真実に到達し、非常に安らかな境涯に達するという仏道修行の過程と言うものも、ほんの少しの中断ということもなしに、清い行いと戒律の保持とが常に繋がって決して終わりになるという事がないのである。

この様な事情であるから、仏教界の諸先輩が行われたところの清い行いと戒律の保持とは、自分がやりたくないのだけれども無理にやったという事ではない。人の目を気にして人がうるさいから自分の行いを正すと言う形で周囲から強制されてやったわけではない。自分個人の意思でもない、客観的な事情によって強制されたわけでもなしに、ただそれが正しい行いであり戒律の保持であるという事だけの理由で、清い行いをし戒律を保持するという事が自然に行われたのである。

自分自身がどの様にして人間でありえたか、自分自身がなぜ人間として生きえたか、自分自身がなぜ人生を持ちえたかということは、まさに自分自身が清い行いをし戒律を保持したからに他ならない。自分の人生というものはまさに自分自身の清い行い戒律の保持によって保たれたのであるし、またそのような自分自身の行いがあればこそ、自分自身を取りまく客観的な世界、環境というもの、世界というもの、宇宙というものが実際にあり得たのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅をやって何年か経ち「坐禅を三年もやったんだから何とかなりゃしないかなあ」と思って、先生に聞いても周りの家族に聞いてもちっとも何とかなっていないけども、悲しいことが突然起こったら、今までは自分はこのような行動をするだろうという色眼鏡みたいなものをかけていたんですが、今は自分が思っていたことと全然違った対応の仕方をする。それがあるいは坐禅の効果かもしれない、そういうように私は体験していますがどうでしょうか。

先生
うん、それはその通りですよ。坐禅をすると自律神経がバランスするから、一切のものをありのままに受取る様になるんですよ。ところが自律神経がバランスしていないと、オ-バ-に受け取ったり過少に受け取ったりするわけです。オ-バ-に受け取ったり過少に受け取ったりするところから生まれる判断が、人生を誤らせる場合が多いんです。事実をありのままに受け取る事が出来るようになれば、考え違いをしたり、思い過ごしをしたりという事がなくなることは事実としてあると思います。そのことが坐禅の一つの結果だという事は言えると思います。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


                       

正法眼蔵 行持(上) 1

行持(上)の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

「行持」の巻の表題でありますが、「行」というのは行い、「持」というのは長い時間継続するという意味にとれると同時に、我々の日常生活の行いの中で戒律を保持していくという意味にも取れるわけでありまして、戒律を維持するという意味にとった方がより言葉の内容が具体的になるというところから、ここでは「行持」という言葉を「梵行持戒」という言葉、「梵行」というのは清い行い、「持戒」というのは戒律を保持する、そういう言葉の略されたものという考え方で理解していく方がより適切だというふうに考えるわけであります。

この巻では仏教の一つの特徴である「人間の行い」というものを非常に重視した問題が説かれておるわけであります。一般に考えると行いを正すという事は大変堅苦しい。何もそんな堅い事を言わなくてもいいではないか、やりたい放題大いに楽しめばいいではないかと言う考え方もあります。今日はそういう考え方が盛んで、各人が一所懸命楽しんでいる。各人が楽しまなければいかんと思っている。

人間は楽しむ義務があると思っているから、皆一所懸命いろんな工夫をして楽しむ事に精を出している訳であります。もちろん楽しむと言う事が決して悪いわけではない。ただそれと同時に、人間がやらなければならない事を堅苦しいからやめておこう、と言う考え方では人生がつまらなくなると言う問題がある。なぜ我々が行いと言うものを考えるかと言うと、人生を面白くするため。なぜ自分の行いを正しくする事が人生を楽しむ事につながるかと言うと、正しい行いというのは自分自身の行い、自分自身の本来の姿、自分自身の本来の生活と言う事である。

本来の生活から脱け出して、楽しいだろうと思われる事を一所懸命やってみても、本当の人生を楽しむ事にならないと言うのが仏教の教えです。したがって、正しい行いをなぜするか。仏教のためにするわけでもない、教えのためにするわけでもない、自分自身の人生の意味を最高に発揮するためにやる。正しい行いは、自分自身の人生を最高度に発揮するための唯一の道としてやると言う問題があるわけであります。この「行持」の巻は、自分自身の人生を一番価値のある形で実現するためには、どうしたらいいかと言う事が書いてある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道は難しい難しいと言いますけど、本当はどうしようもなく易しいんだと思います。私たちが勉強してきたものはみんな難しかったから、勉強は難しいと信じ込んでしまっている。私自身はあまり平凡なことを改めて言われると、それを難しく取ろう取ろうとしているから難しくなってしまうのではないかと・・・。

先生
まさにその通りですよ。ですから仏教を難しくするのは坐禅をしないからですよ。坐禅をしますとこのくらい簡単なものはない。坐禅をしている以外に仏道はあり得ない。ただ坐禅をしていればいいというだけの問題。ところが坐禅をせずにさて仏道を理解しようと思ったら、何万冊、何百万冊と本を読んでも絶対わかるものじゃない。仏道というのはそういうものだという事がはっきりあると思います。

だから坐禅をしている限りこんな易しいものはない、わかるもわからないもないわけで、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしておれば、自分自身と仏道とは別ものではないという事情が直ぐ出てくるわけです。そういうものが仏道であるし、それが釈尊の教えだと、こういう事が言えると思います。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


正法眼蔵 恁麼 25

ある時、曹谿山の大鑑慧能禅師が南嶽懐譲禅師に説示した。「この現実の世界というものは、言葉では表現できない何かが現にこの様に目の前に現れておる。それが現実の世界の実態だ」と。

この大鑑慧能禅師の言葉の意味は、言葉では表現できない何かと言うものは、疑う事の出来ない現実であるけれども、理解しようとしても理解できるものではない。我々の住んでいる現実の世界は、言葉では表現できない何かと言われているのである。この世の中に存在する一切万物もまたまさに例外なしに、言葉では表現できない何かだと学ぶべきである。

どの一つをとってみてもあらゆるものが、まさに例外なしに何々と説明する事の出来ないものであると学ぶべきである。この様に言葉では表現できない何かと言う捉え方をすると、えてして一切のものに対して疑いを持つと言う態度が想像できるけれども、決して疑いを持つという事が実態ではない。

我々は現に目の前に様々な事物を見ている。その様々な事物は疑いようのないものであるけれども、言葉ではそれを説明する事はできない。しかし現に我々の目の前にこの様に現れているのである。

            「正法眼蔵恁麼」
            1242年 旧暦3月26日
            観音導利興聖宝林寺において沢山の人々に説示した。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
慧可大師が達磨大師のところへ来て「不安である」と。そしたら達磨大師が「心を持ってこい」と。慧可大師が「どこを探しても心というのはありません」と言ったら、達磨大師が「じゃ、お前は心がないんだから安心した事になる」とかという、それに近い問答がございましたね、あれはどう言う事でしょうか。

 先生
仏教哲学の基本では、心と言うものはないんだと言う考え方があるわけです。だからふつう心と言うものがあるというふうに考えて、安心するとか安心しないとかというふうに常識的には考えるわけですけれども、哲学的に詰めていくならば、心と言うのは一体どこにあるんだと、そういう事を問題にするわけです。
     
例えば「正法眼蔵」古仏心の巻には心というものの説明があるわけです。心というのは垣根、壁、瓦、礫だと言う説明があるわけです。垣根、壁、瓦、礫ということは、心というものは別にあるのではなくて、垣根がみえる、壁が見えるというふうな具体的な事物があるという事が、心というものがあるだろうという事の唯一の証拠だ。それを別にして心と言うものはない。そうすると物と心とが一つのもので、二つに分ける事ができないのが現実の世界。これが仏教哲学の基本の考え方です。 

だからその事が達磨大師と慧可大師の問答の中でもでてくるわけで、慧可大師は心というものがあるもんだと思い込んでいるから、その心を安らかにしたいと言う事で達磨大師の所へ行ったわけですけども、達磨大師は「心を持って来い」と言うことで慧可大師は「見つけても見つかりません」と言ったら、心がないという事は、すでにもう安心というものが必要がないと言う事をはっきり証明していると、そういう意味で「もう安心が終わった」というふうに言われたわけです。

質問
今のはわかりました。でも何となく、やっぱり「心」がないと言っても日常的に不安であるとか。

先生
ですから人間がそういうものがあると推察している。ただ不安と言ってみても何らかの事実があるというだけであって、それを「心」だというふうに言葉をつけるから、それを安らかにしなくてはならないという問題が出て来るわけです。「心」と言う言葉があるから「心」と言う実態もあるのだろうと考えて見ても、そんなものはどこにもないと言う考え方です。

※私の独り言
ストレスという言葉もストレスという言葉があるから、ストレスという実態があると思い、ストレス解消という言葉も出てくるのかな・・・。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


  

正法眼蔵 恁麼 24

石頭希遷禅師と薬山惟厳禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

この様なところから考えて来ると、我々が住んでいる世界のどこにでも行き渡っている真実の働きは、それが限りがあると言う捉え方もできるし、また無限だと言う捉え方もできるけれども、有限だとか無限だとかというどの様な捉え方をしても、それが現実に我々の生きている世界に行き渡っている真実の働きを説明するわけにはいかない。

結論を言うならば、言葉では表現できない何かと言うものを勉強したいと思うならば、それはどの様な言葉でも捉える事はできないとはっきり承知すべきである。そこで、どの様な言葉でも捉える事のできない状態、実態とはどういうものかと尋ねたいならば、その実態と言うものを言葉では表わす事のできない何かに問わなければならない。

この様な考え方というものが一応仏教的な考え方という事が言えるけれども、今ここで述べたような具体的な言葉では表現できない何か、あるいはどうしてもつかむ事の出来ない事情と言うものは、単に仏教的な立場だけから考えられたと言うものだというふうにはいかない。なぜそうかというと言葉では表現できない何か、どうしても捉えることのできない事情というものは、我々が住んでいる宇宙全体の実情に他ならないのであるから、仏教的な哲学も乗り越えた広範囲なものだと言わざるを得ない。

我々が現に生きているこの宇宙の実態と言うものは、理解しようとしても理解できるものではないし、それを真実として捉えようとしても中々捉える事が出来ないものが、まさにその実態である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
大和尚と呼ばれる方は坐禅をしておられる時が如来であり仏であり、そうではない時は普通の人間と言う事ですか。

先生
いや、そうではなくて、仏の状態というのは本来の人間の状態。ところが人間は知恵があるから自分でレ-ルをつくって別のレ-ルを走っているわけだ。だから本来の自分のレ-ルに戻ってくれば仏になる。仏道修行をした人というのは仏道修行の結果、本来の自分のレ-ルに乗った人たちである。凡夫というのは、自分のレ-ルからはずれておる人の事である。

質問
一度レ-ルに乗れば、もう外れる事はない・・・。

先生
ええ、それはもう本来の自分のレ-ルだから坐禅を毎日続けている限り外れない。ここが大事なところです。一度レ-ルに乗ったから一生大丈夫というわけにはいかない。毎日、坐禅をやっていないとすぐ外れてしまう。まあ偉い人は、すぐでもないだろうけれども。しかし酒飲んで女狂いをして、それでもレ-ルに乗っているというわけにはいかない。やっぱり、すぐ外れてしまう。そういうことをすると。

質問
如来様でも励まなくてはならない、と言う文章がありますが・・・。

先生
そう、そう、そういうことです。だから道をはずさないために、お釈迦様だって、坐禅をしたり、説法をしたり、努力して一生を過ごされたという事でしかない。悟りをひらいたからもうどんな事やっても大丈夫だったというわけにはいかない。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-