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正法眼蔵 神通 15

龐居士蘊公の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

人によっては、日常生活のために水を運ぶ事が神通(神秘的な働き)だと気がつかない場合があるけれども、仏教でいう「神通」とは、水を運ぶというような卑近な日常の動作であり、どんな時代が来てもそのことがなくなるはずがない。また燃料に必要なたきぎを運ぶ事も同じである。たとえば、中国の第六番目の指導者である大鑑慧能禅師が僧侶になる前は木こりとして薪を集めて商売にしていたような情態である。
  
我々が、朝行う様々な行動も神通に他ならない。また、夕方行う様々な行動も神通に他ならない。我々はそれらの行いが、神通だと言う事に普通気がつかない。気がつこうが、気がつくまいがに関らず、それらの日常の明け暮れの様々な仕事と言うものが全て神秘的な働き「神通」である。

この様な形で、我々の日常生活におけるごくありふれた行動と言うものが、実は神通であり素晴らしい効用をそなえたものである。真実を得られた方々の持っておられる神秘的な働き「神通」は、優れた効用と言うものであると言う事を見たり聞いたりする人は、例外なしに釈尊の説かれた真実と言うものを自分のものにする事が出来るであろう。

※西嶋先生解説
だから仏道の真実というのは決して、本をたくさん読んだら難しい理論がわかって、何でもかんでもわかるようになるというふうな、そういう単純なことではない。我々の日常生活における個々の動作というものが、いかに尊い意味を持っているかがわかってくるかどうかという事が、仏道がわかって来るかどうかという事の分かれ目になる。そういう事がわって来た場合に、必ず釈尊の説かれた教えの実態がわかるであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
この六神通というのをずっと拝見してると、坐禅を長くおやりになってた先生とかいう方は、だいたい六神通を全部お持ちになってる…。

先生
いやあ、そうはいかないと思うねえ。いわゆる勘がよくなるというようなことはあると思ますけど。

質問
たとえば、普通の人はわりに法ってのはわからない、見えないですね。先生の場合、法というのを体得されてるっていえば、人の見えないものが見えるとか・・・。

先生
だからそういう点では、むしろ道元禅師は、そういう法というふうなものの認識は、日常生活で水を運んだり、柴を運んだりという働きの中に、法そのものがあるんだと、そういう考え方ですよ。それがまさに実感だと思うんです。だから私も、日常生活をとにかく生きているから、否応なしに法にぶつかるという風なことであると思うんですよ。

だから日常生活を離れて法なんてものはあり得ない。だから部屋に閉じこもって、お経を傍らにうずたかく積んで、片っ端から読んでみても、法なんてものはあり得ない。むしろ日常生活であっちへぶつかり、こっちへぶつかり「俺はどうしてこうバカなんだろう」というふうに悩みに悩むところに、法というものに触れるという点があると思います。

質問
どれを称して超能力というのかわからんけれども、超能力はありますな、たとえば、明恵上人なんていう方は、鳥の声なんかよく解したそうです。この辺は先生、どういうふうにお考えになるかな。

先生
そういう人もいたかもしれないけれども、今日一日一所懸命自分の仕事をやっている人の方がなお偉いと思うね。そういうもんだと思いますよ。自分の与えられた仕事を夢中になってやってる人以上に偉い存在というのはあり得ない。だからそういう点で、自分の仕事、自分のやるべきこと、日常生活に打ち込んでいる人が仏であって、神通仏であってそれ以上の能力があるないという事はどうでもいいことだ


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正法眼蔵 神通 14

龐居士蘊公の言葉について道元禅師が注釈されます。

この龐居士蘊公が言われた基本的な理論というものは十分に勉強してみる必要がある。ここで龐居士蘊公が「運水」と言う言葉を使っておられるけれども、その意味は水を運んでくると言う意味である。自分自身で水を運ぶ場合もあれば、人にその水を運ばせると言う事もある。いずれにしても、水を運んでこなければ我々の日常生活そのものが成り立たない。

仏道修行を積むと神通(神秘的な働き)が具わると言われているけれども、結局我々の日常生活において必要な仕事を一所懸命にやるという事が神通仏(神秘的な働きを具えた仏)というものの姿である。この様な理論というものをわかる場合もあれば、わからな場合もあるけれども、これらの水を運ぶという仕事が非常に神秘的な人間の貴重な働きであるという事には変わりがない。

その様な日常生活における動作が仏教にいう神通であると言う事は、人によってはそのことを承知していない場合もある。しかし、人がその事を承知していないからと言って、神通であると言う事実がなくなるわけではない。人は知られども法は法爾なり(法は人が知ろうと知るまいと事実というものは厳然として存在する)。

※西嶋先生解説 
この辺が仏教という思想の非常に大切なところである。我々は普通、人間の頭の中で考えられた事が実際にある事だというふうに考えがちであります。だから「偉い人」とか「偉くない人」とかというふうに頭で考えると、偉い人というものがあり、偉くない人があるというふうに理解して日常生活を送っていくわけでありますが、実態的に、現実的にものを考えるならば、Aの人があり、Bの人があり、Cの人があると言う実態があるだけに過ぎない。

人間が勝手に「偉い」とか「偉くない」と言うふうにレッテルを張って区別しているだけの事であって、本当に偉いか偉くないかは人様々。ただAの人間があり、Bの人間があり、Cの人がおるというふうな、実態がどうなっているかと言う事は、人間がどう思うかとは別に厳然として存在する。その事を「法」と言う。そういうふうな「法」が実際にあると言う事が法爾という言葉の意味です。




              ―西嶋先生の話―
                         --つづき

坐禅の時は腰骨を真っ直ぐ伸ばしている事がかなり大事な問題になるわけです。腰骨と言うのは人間の体の重心。だから腰骨が正しくなっているという事、背骨も正しくなっているし、首の骨も正しくなっているし、体が左右に傾いていないという事にも繋がる訳です。腰骨の状態を正しく保つ事が、体全体が健康になるという事と関係ある訳です。そして自分が健康であるという事と、仏道がわかるという事とは同じ事
 
仏教以外の宗教では、宗教と言うのは大体心の問題だ、魂の問題だと言う。だから体が少しぐらいおかしくっても宗教に一所懸命であれば、人生問題は悩まないという考え方がある訳です。しかし仏教ではそんな事は言わない。人間は生身の体を持っているのだから、生身の体をちゃんとしておかないと人生の悩みは決して解けない、そういう事を主張するわけです。だからそういう点では仏道の真実を何によって得るかと言うと、一面から言うならば体で把むと言う事がある訳です。

坐禅をやっている時の腰骨の正しい状態を毎日続けて、そういう体の状態を維持しながら人生を生きていくと言うのが仏道修行だ、それ以外に仏道修行はないと言う事も言えるわけです。道元禅師が「悟るのは体で悟るんだ」という事をしきりに言われたのは、そういう意味を持っているわけです。


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正法眼蔵 神通 13

※本文に入る前に西嶋先生の話です。   

この神通というのはどういうことかといいますと、仏道修行をしていると、普通の人では達成できないような能力が生まれてくる、非常に不思議な神秘的な能力が生まれてくるという考え方が昔からあるわけであります。ところが道元禅師はそういう仏教でいう神秘的な能力というのは、空が飛べるとか、地面の中にもぐれるとか、そういうふうな子供だましの能力ではなくて、日常生活がキチットやれるという事が神通と言われることの実体だと、そういう事をこの「神通」の巻で説かれています。
 
本文に入ります。
龐居士蘊公という人は、釈尊の教えにおける優れた人であった。馬祖道一禅師や石頭希遷禅師の教団において勉強したばかりでなく、そのほか仏道を十分に身につけた沢山の師匠たちに出会って、様々な教えを聞いた人である。その龐居士蘊公がある時言う「仏教でいう神通(神秘的な働き)とか効用(素晴らしい機能)とかというものは、日常生活において飲料の水を運んだり、燃料のための柴をかついだりする事に他ならない」と。

※居士とは、仏教の信者で一所懸命仏道修行はしているけれども、僧侶にならないで普通の社会生活をしている人を言う。



              ―西嶋先生の話―

仏教ではよく「悟る」という事を言うわけです。「悟る」と言う言葉の意味は仏教の真実がわかるという事になる訳です。この「悟る」と言う問題に関連して、仏教とは「心で悟るのか、体で悟るのか」と言う問題もある訳です。元来仏教は「体と心とが一つのもの」と言う考え方が基本にあってその考え方を「物心一如」と言う。

したって理論的に言うならば、仏教は体でも悟るし心でも悟るんだ、体で悟る事が心で悟る事だし、心で悟る事が体で悟る事だという事になる訳です。ただ坐禅をやっての実感から言うと、体で悟ると言う感じの方が強いと言う問題がある訳です。ですから道元禅師も「正法眼蔵」の中でよく「体で悟る」と言う事を言っておられるわけです。そこで体で悟ると言うのはどう言う事かと言うと、坐禅を表現する言葉として「正身端坐」という言葉を道元禅師が使っています

「正身端坐」とは、体を正しくしてきちんと坐るという事です。だから坐禅というは、体を正しくしてきちんと坐る事。そして体を正しくした時は、自分の体全体が正しくなった時それが坐禅であり悟りだと、そういう考え方をされているわけです。毎日自分の体を正しくしているという事は、自分の体を毎日健康に保っているという事。またそういう生活を毎日続けていくならば、人間の体は無限に健康の方向に向かって進んでいくと、そう言う問題がある訳です。
                          つづく--


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正法眼蔵 神通 12

潙山霊祐禅師と二人の弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。

ここで無限とか瞬間とかといってみても、この我々の眼の前にある具体的な世界を離れてあるのではない。その毛筋とか芥子粒とかというものが一体何から生まれてきたのかと言う事を考えてみると、我々が日常生活において日常の行動を一所懸命やっていればこそ、手筋の先とか芥子粒という具体的なものも初めて存在し得るのであり、 それらの具体的な事物の存在すると言う事が、永遠と言うものであり、瞬間と言うものがある事につながっていくのである。
 
※西嶋先生解説   
ここで道元禅師が説いておられる主張というものは、一切の物も、一切の時間も、我々が一所懸命に働けばこそあるんだ、我々の働きを他にしてこの世界というものはないと言うこと、これがここで説かれている主張であります。で、これが仏教の主張。だから、何が尊いかと言って、自分達が一所懸命に日常生活をやっていくと言う事が尊いのであり、 それだけが世界が現実にあると言う事の唯一の根拠と言う事にならざるを得ない。

本文に戻ります。
この様に我々の日常生活から得られたものが、我々の行う神通(神秘的な働き)という事が言えるのであるから、我々の日常生活――神通(神秘的な働き)が神通(神秘的な働き)を生み出していると言えるのである。 その点では、過去・現在・未来と言う時間が生まれたり消えたりと言う考え方もあるけれども、そう言う考え方ではなくて、現在の瞬間瞬間をどう生きどう行動していくかと言う事が、我々の人生の全てであり、宇宙のあり方の全てであると言う事を学ぶべきである。

諸仏(真実を得られた方々)は、いずれもこの神通(神秘的な働き)すなわち日常生活における一挙手一投足に遊び戯れて生きていくのである。 日常生活の中で瞬間瞬間に生きていくと言う事が仏(真実を得た人)と言う人格の生活であり生き方である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
これで見ますと、すべての人がみんな神通力を持って、あえてこの諸仏だけじゃないという事になりませんか。

先生
そういうことは言えますね。ただ誰でもが自分のやるべきことをきちっとやれるかどうかというとこに問題があるわけです。大抵の人は、こうやりたいと思うけど、どうもやれない、これはやっちゃいかんと思って一所懸命頑張ってるんだけど、ついやっちゃうというのが大体の普通の人のあり方ですよね。神通というのはどういうことかというと、やりたいと思う事がすぐきちんとやれるし、やりたくないと思う事はやらんで済ませることができるという事。

第一、何がやりたくて、何がやりたくないかというのがよくわからんというのが、人間にはありがちなわけですね。そうすると、神通というのは何処にでもゴロゴロ転がっているはずのものですけれども、そう転がっていないという事でもある。


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正法眼蔵 神通 11

潙山霊祐禅師と二人の弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。

毛筋の様な小さなものも、海の様な無限に広いと感じられる大きなものも、この宇宙の中の様々な現れであるから毛筋も大きな海も決して異質のものではない。毛筋程の小さなものが大きな海をその中に取り込んでいるとも言える。 この我々の住んでいる宇宙の中の様々な出来事は大きいとか小さいとかと言ってみても、そう決定的な区別が出来るものではない。 大きいものも小さいものも、すべて一つにして宇宙の中の様々な様相を示しているに過ぎない。
 
そしてたった一本の毛筋というものが我々の住んでいる全宇宙を飲み込んだり吐き出したりしている時に、この宇宙は現に我々が眼の前にみている通りのものである。様々な変化があり、小さいものがあり、大きいものがあり雑多などう理解していいかわからないような複雑な世界であるけれども、このようなな宇宙の他に、もう一つ別に統一された大きな宇宙があるはずだと考えてはならない。また芥子粒が須弥山という途轍もなく大きな山をその中に入れてしまっているという表現もあるけれども、これもいま述べた考え方と同じように理解すべきである。


芥子粒が大きな山を吐き出し、また芥子粒がこの宇宙の無限の大きな世界を現実に示しているという事も言えるのである。毛筋の先が大きな海を吐き出すとか、芥子粒が大きな海を吐き出すとかという捉え方ができると同時に、それらの状態は瞬間瞬間においても大きな海を吐き出しているということが言えるし、また無限の時間の中においてもその様な変化が行われているのである。この事は現実の世界というものが、瞬間瞬間の世界であると同時に、無限の時間の中における世界でもあると言っているのである。



              ―西嶋先生の話―
                            --つづき

ある人は褒められたいという事に熱心になるわけです。そしてある程度人から褒められ自分も満足がいくと、人から褒められるだけではつまらないと感じて来る。人に褒められる事は結構だがそのために損をしている、中々財産が出来ない。あるいは商売の方でマイナスが出るという事になると、ある時点で人に褒められているだけではつまらない、お金が儲かった方がいいと言う考え方も出て来る。そうすると考え方も変わってくる。

今度は人に褒められる事なんかどうでもいい、名誉なんかどうでもいい、恥じも外聞もなくお金儲けがしたいと、こういう動きもある訳です。そうすると今度は、お金儲けに一所懸命になって目的が達成されてかなりお金が儲かってくると「あいつは恥も外聞もなく、金を儲けた」と言われるのが嫌でまた人に褒められたいと思う、そうするとまた逆方向の「名誉」に動く。たとえば経済界で活躍して財産的には非常に恵まれた人が、そのうちに勲章が欲しくなる。そうすると、今迄儲けたお金を使って今度は勲章をもらおうという考え方でまた名誉の方向に行く。

仏道はどういう立場かと言うと、名誉にも寄り過ぎない、利得にも寄り過ぎないと言う線があると言う考え方をする訳です。その両方から離れた世界が「法の世界」です。名誉、利得が本当の基準ではない。その両極端から離れた真ん中に「法の世界」がある。仏道で「中道」と言うのは、こういう二つの価値の真ん中に本当の拠り所になる基準があるという考え方が基礎にある訳です。こういう考え方からしますと、この「法の世界」の中で生きると言うのが仏道修行の基本になる訳です。法の中における日常生活、社会的な努力と言うものが仏道の世界だと、こういう理解が出来るわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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