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正法眼蔵 阿羅漢 3

阿羅漢の巻、本文に入ります。

法華経に「もろもろの汚れがすでに消滅してさらに煩悩もなく、自分自身の長所を十分に把握して、生存における多くの束縛も消え失せ、自分の心が自由自在の境地になった」と言っているが、これこそ声聞乗の最終の境地とされている阿羅漢であり、釈尊の教えを学ぶ人における究極の成果である。。これを仏教哲学では仏道修行における第4番目の成果と呼び、真実を得たもところの仏と全く同じ境地に立った阿羅漢と言うのである。

もろもろの汚れとは、柄のとれた破れ柄杓にも例えることのできる我々の肉体そのものである。それを使用して来た年月は非常に長い期間に及んでいるけれども、。すでに消滅したとは破れた木の柄杓そのものが、現実の世界に躍り出て,柄のとれた破れ柄杓というような言葉の上だけのとらえ方を抜け出た状態を言うのである。

自分自身の長所をしっかり把握するとは、自分自身の実態というものがよくわかって、いいままでの境地とは別の境地に住むようになった状態を言うのである。

こだわりが全部なくなった状態とは、宇宙と言うものは昔から今に至るまで何も隠していない、ありのままの宇宙と言うものが我々の眼の前に存在する。ありのままに我々の住んでいる世界の実態が見えて来るという事が、様々のこだわりから解き放された状態という事に他ならない。

自分の心が自由自在の境地になったとは、、高い所は高いなりに安定している、低い所は低い所で低いなりに安定している。高い、低いという事は大した問題ではない。安定しているか安定していないかと言う事の方がはるかに大切だという事である。自分の状態が高かろうと低かろうと、高いなら高いなりに、低いなら低いなりに安定した境地に住まっているという事である。



          ―西嶋先生にある人が質問した-

質問
先生は「正法眼蔵」を若い時に読んだけど当時は中々わからなかったが、年を取るにつれてわかってyきたという事を話されました。若い時には自己中心的なところがありますから、自分の都合でエゴイズムといいますか、そういう読み方をされていたのが、年を重ねるうちに自己中心主義ではなくなって主観と客観がだんだん近づいて来るから、わかる様になるという経過でしょうか。

先生
いや、そういう経過ではなしに、まあ「正法眼蔵」の難しさの理由としてはいくつかありますけど、一つの思想としては4つの考え方が重なっているという事です。その4つの考え方が重なっているという事が仏教思想そのものであるわけだけれども、そのことはどういう事かというと、主観・客観という関係でいうならば最初の苦諦の立場とはあくまでも主観主義です。俺はこう思う、俺は自由だと思う、俺は何でもできる、希望すればどんな事でも叶えられる、と言うのが苦諦の世界ですよ。

それから二番目の世界というのは、客観を中心にして全部を考える世界。そんな事を言ったってもう現実はちゃんとあるんだ、人もたくさん生きているんだ、世の中は厳しんだ、もう成り行きに任せていくしかないんだと言うのがいうの集諦の立場ですよ。

それで成り行きに任せて行くんだという事では、人間はもう生きていくことが嫌になるわけですよ。そうすると何とかしなきゃならんという事で立ち上がるのが諦滅の立場。そうすると主観とか客観とかという理屈ではなしに、もう無我夢中で毎日の生活をするというのが滅諦の立場です。だが無我夢中の立場で何かをやっていると、もう間違いだらけになってしまう。自分も傷つく、人も傷つける、どうにもならなくなるという事で基準が必要だ、

そこで一番最後の段階として道諦の立場があり、坐禅に基準を求めてもう一度自分の人生を立て直そうというのが仏道です。だから「正法眼蔵」の中には必ずこの4段階方が入っているわけです。私が若いころ「正法眼蔵」を読んだ場合には、1番最初の段階だけはわかったんですよ。発菩提心――なるほどそうだ、真実を知りたいという気持ちを起こすことが必要なんだ、それがすべてだという風にだけ考えていると、後の2番目、3番目、4番目が皆目わからない。
                           
だから「正法眼蔵」を読んだときに、一番最初に4分の1はわかるわけです。たいていの人がそうです。4分の1だけ、非常にいいことが書いてあるから何とか読みたいと思うわけ。ただ後の4分の3は皆目わからないと言うのが事実です。なぜ4分の3がわからないかというと、「正法眼蔵」は4段階の考え方で説かれているという事に気が付かないと、4分の1しかわからないし、4分の1わかったところで、4分の1だけの解説をして後は適当に流しておくという解説がいくらもあるわけです。

ただそういう読み方をしていると、仏教そのものがわからないと、こういう問題があると思います。だから「正法眼蔵」の難しさは、もちろん難しさもありますけれども、1番「正法眼蔵」の難しさの基本になるものは、4段階の考え方で書かれているという問題、つまり仏教思想が書かれているという問題です。釈尊の説かれたのと同じことが書いてあるという事は、4段階の思想が書いてあるという事だし、その4段階の思想がわからないと釈尊の教えそのものがわからないと、こういう事になると思います。


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正法眼蔵 阿羅漢 2

「阿羅漢」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話は続きます。

ところが道元禅師はこの解釈に反対された。仏道修行において戒律をきちっと守れる様になり阿羅漢になったという事は仏になった事と全く同じであると。だからある種の仏教徒が仏教を小乗仏教と大乗仏教とに分けて、小乗仏教で阿羅漢の境地に達した人は、必ずしも大乗仏教の立場から見て価値が完全とはいえないという主張に対して、道元禅師は阿羅漢の境地こそ仏と同じ境地だと主張された訳であります。

ですからこの「阿羅漢」の巻においては、小乗仏教の最高の境地が仏そのものだと言う主張をされているわけでありまして、その事は道元禅師が、仏教を小乗仏教と大乗仏教と二つのものに簡単に分けてしまって、大乗仏教は尊いが小乗仏教は尊くない、戒律を一所懸命追い求めている仏教徒の生き方は、本当の仏教ではないと言う理解の仕方は誤りだという主張も説かれているわけであります。

道元禅師の思想によると、釈尊の教えというのはたった一つしかない。小乗仏教だとか大乗仏教だとかと言うかたちで二つに分かれるはずがない。釈尊の説かれた教えが時代の変還に従って説く形式は変わって来たけれども、その中身はたった一つの釈尊の教えでしかないと言う主張を持っておられたというわけであります。

そういう立場から、小乗仏教というものを軽視して、阿羅漢というものに対して余り尊敬を払わない考え方と言うものを、この「正法眼蔵阿羅漢」の巻で否定しておられる事が、この巻で説こうとされている趣旨の一番中心にある問題であります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅をすれば百人百色でもって、その人その人の捉え方というものがあってしかるべきだと思います。「こうでなくてはならない」というふうなパタ-ンにはめ込むものではないと思うんですが・・・。

先生
それと同時に、坐禅の究極というものは誰でも同じです。という事は我々が「正法眼蔵」を読んでなぜ感激するかといえば、我々自身の中に「正法眼蔵」に説かれてたものと同じものがあるからですよ。我々が坐禅をした時になぜ気持ちが落ち着くかと言えば、我々の中に坐禅と同じ境地のものがあるからです。それが外に出てくるだけですから。

そうすると仏道修行というものは、誰の場合でも結局は同じものだという事が言えると思います。そうでなければ我々が道元禅師の心境がわかるはずがないし、釈尊の心境がわかるはずがない、天童如浄禅師の言われていることの意味が分かるはずがない。曲りなりにもわかるという事は、我々すべてが共通のものを持っているという事です。

特に坐禅という修行法を経験した以上、その坐禅という共通の修行法を通じて誰でもが同じものが体験できるというのが釈尊の教えだとみて間違いないです。それだけに坐禅は有り難いんです。だからそれだけに、坐禅なしに仏道があり得るかというと私は絶対にありえないと思う。だから私が、坐禅、、坐禅というのはそのためなんです。それと同時に私が嫌われるのもそのためなんです(笑)。

坐禅という事が書いてなければ仏教書は読み物としては面白い。あいつ(西嶋)の本は、坐禅、坐禅と二言目には書いてあるから読む気がしないというのが実情だと思います。ただ私は坐禅、坐禅という事を書かないと仏教を書いた事にならないと思うから、人から嫌われるようでも、坐禅、坐禅と言うし、書くし、するしかないんです。それ以外に仏道というのはないですよ。そういうふうな関係があると思います。


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正法眼蔵 阿羅漢 1

「阿羅漢」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

この阿羅漢とは何かという問題でありますが、この講義でも何回も出てきましたが、仏教の考え方の中に三乗と言う教えがあるわけであります。三乗というのは声聞と縁覚と菩薩と言う三種類の考え方であります。「乗」というのは乗り物と言う意味で三種類の乗り物。

1番目の声聞乗と言うのは何かというと、釈尊の声を聞くという意味で、釈尊の説法を聞いて仏道を勉強していくという考え方であります。2番目が縁覚乗、縁というのは外界の世界という意味、ですから外界の世界を観察する事によって仏道を勉強していく。3番目が菩薩乗、菩薩というのは普通の社会生活、日常生活を通じて仏道を勉強していくという考え方であります。

この様な三種類の考え方がいつごろ特に説かれたかと言いますと、釈尊が亡くなってから4、500年たちまして、いわゆる大乗仏教と言う教えが生まれた時に、このような三種類の仏教徒のあり方というものが特に強く説かれ始めたわけであります。大乗仏教がどうしてこの三乗と言う教えを説いたかといいますと、自分たちの仏教の勉強の仕方は菩薩乗だ、社会生活をつづけながら仏道を勉強していく立場だ。それに対して自分たちよりも前の時代に盛んであったであった仏教の勉強の仕方は声聞乗か縁覚乗である。


経典を勉強し釈尊の説法を基準にして仏道を勉強するという声聞乗の立場か、社会生活を嫌って一人山の中に入って静かに生活をすることによって仏道を勉強するという縁覚乗の立場か、この二つの立場だけれども、この二つは仏教の勉強の仕方はとしては消極的であって小さい。したがってこの二つの修行方法を大乗仏教の人たちは小乗仏教と言ったわけであります。それに対して自分たちの様に普通の社会生活をしながら仏道を勉強していく生き方をというものが釈尊の本当の教えにかなうものであって、乗り物と言う立場からするならば大きな乗り物である。したがって自分たちの仏教の事を大乗仏教と唱えた訳であります。

この様な大乗仏教の生まれた時代に、今日のいわゆる大乗経典と言われる「華厳経」であるとか「妙法蓮華経」であるとか「維摩経」であるとか、そういう経典がどんどん作られていったという事が言えるわけであります。この大乗仏教の人達がいわゆる小乗仏教の一つの流れである声聞乗の最終の段階に達した人の事を「阿羅漢」と呼んだ訳であります。阿羅漢というのは本来の意味は供養に値する人と言う意味であります。

つまり仏道修行をして仏道の最終の境地に達して、一般の人々から供養を受ける価値のある人と言う意味が阿羅漢と言う言葉の内容であります。ところがその事は小乗仏教の立場、声聞乗の立場からした場合の最高の境地を指すと大乗経典の立場からは理解した訳であります。そういう阿羅漢と言う境地の特徴としては、戒律を守って戒律に違反しなくなると言う特徴を考えた訳です。ですから「阿羅漢」というのは行いすまして戒律を破らない境地に達した人というものを意味する訳であります。
                             つづく--



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
初歩的な質問なんですが「正法眼蔵」の中には「空」と言う言葉がございますね。一般的には「空」とか「無」と言うのは・・・。

先生
今、普通に「無」とか「空」とか言われている説明の仕方と言うのは、本当のものがないと言うふうな意味が非常に強いです。たとえば鈴木大拙さんなどは「東洋的な無」と言う事を言っておられる。それから京都大学の先生で久松真一さんと言う方がいるんです。この方もやはり同じ様な意味で、何もないこと、それが「無」だとか「空」とかと言う説明をされるわけですね。また江戸時代の白隠禅師なども「隻手の音声」と言う事をしきりに言われているわけですけれども、臨済系の坐禅の悟りと言うものと「無」とか「空」とかと言うものとが非常に関係が深いという理解の仕方もされているわけです。

私が「正法眼蔵」を読んだ限りでは「無」とか「空」とかをそういう何でもないと言う意味に理解したら、理解出来ないものになってしまう。つまりもの事を考える場合に、あるいは仏教、仏道を考える場合にも我々の日常生活に即してそれが何であるかと言う事を詰めて考えないと本当の意味で我々の日常生活に活きて来ない。だから本にはああ書いてあった、こう書いてあったと言う理解の仕方ではなしに、自分自身が朝、顔を洗って、ご飯を食べたと言うふうなごく卑近な日常生活の中で「そう言うものがあるかどうか」と言う事で考えざるを得ない。

そうすると仏教思想の基本には「無」とか「空」とかと言うふうなものを乗り越えて、現実の世界と言うもの、日常生活というものが基準にあるのだと。そういう現実の世界を基準にして「無」とか「空」とかと言うものを考えていくと、「ない」と言う事ではなくて、我々の見方をちょっと変えると「そんなものは何でも無いんだ」と言う超越した見方も出来るわけです。それが「空」の立場「無」の立場だと、そういう理解の仕方をするわけです。


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正法眼蔵 観音 27

「観音」の巻について道元禅師のあとがきは続きます。

雲門禅師は、眼で見えるものを見る事によって釈尊の心境とはどう言うものかという事を知る事ができるし、外界の様々の音を聞く事によって真実とは何かと言う事がわかる、という形での観世音菩薩に関する説明がある。

この様な説明からもわかる様に、我々が生きるこの世の中で、耳に聞こえて来る音や眼に見える姿や形というものが、我々が見たり聞いたりする観世音菩薩そのものの声であり姿であるとどうして言えないことがあろう。我々が日常生活で耳にするもの、目にするもの、それら全てが観世音菩薩の働きであり生命の働きである。

それから、百丈禅師は観世音菩薩の教えを契機にして真実の世界に入ると言う主張が伝えられている。また。「楞厳経」で説かれた仏教集会においては、円通観音として観世音菩薩が説かれている。また「法華経」では、この世の中のあらゆる場面に現れる観世音菩薩が説かれている。

この様な観世音菩薩の現れ方と言うものは、いずれも真実を得られた方々と同じ様な境地で現れて来るのであり、真実そのものと同じ様な境地に住んでいるという事が観世音菩薩の実態である。我々を取り巻いている山や川や大地と観世音菩薩とは全く同じ境地のものであると言える。

その様な状況から言える事は仏教経典の中に沢山の観世音菩薩が現れてくるけれども、これらの沢山の観世音菩薩もこの雲巖禅師と道吾禅師が説かれた「観世音菩薩が非常に沢山の手を持ち、眼を持って、我々の日常生活において広範囲の働きをされている」と言う説明における1つ2つの例と言う事が出来るであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―    

    --つづき

先生
だからそういう点では、この雲巖禅師と道吾禅師の問答の内容は非常に深い意味を持っているという事が言えると思います。というのは道元禅師もこの雲巖禅師も、道吾禅師も滅多なことではごまかされない方だった。

これは正直というか、厳密というか、何となく「ああ、そうですか、わかりました」という形ではなしに「これはどうですか、これはどうですか、おかしいじゃないですか」というふうな性格の方だったという事が言えるわけ。仏道というのはそういう性格の人が求めるもの。

「あ、わかりました。もう結構です」という事であれば仏道というのは必要がないかもしれない。ところが「いや、どうも納得いきません。どうもおかしいじゃないですか」というものの考え方をする人が、やっと納得できる思想というのが仏教。道元禅師もこの雲巖禅師と道吾禅師の問答を読まれたときに「ああ、この説明が観世音菩薩の説明としては最高だな」という感じを持たれ、「観音」の巻を書かれたとみていいと思います。


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正法眼蔵 観音 26

「観音」の巻について道元禅師のあとがきです。

現に釈尊の説かれた教えがインドの国から次第に伝わってわが国にまで伝わって来ているけれども、その長い期間の間には、真実を得られた沢山の方々が観世音菩薩について色々と説明されている。それらの沢山の説明は、雲巖禅師と道吾禅師との間で行われた問答には及ばないので、今ここではこの雲巖禅師と道吾禅師が取り上げられた説明の仕方だけを基準にして観世音菩薩の説明をした。

たとえば「証道歌」を書かれた永嘉真覚大師の「何かこの世の中におけるたった一つの事柄に執着して、それだけに囚われていると言う事がないならば、その人は真実を得た人如来と呼ぶ事が出来る、その人は物事を自由自在に見る事が出来る観世音菩薩と呼ぶ事が出来る」という言葉が伝えられている。

この様な永嘉真覚大師の言葉から理解できるところは、釈尊も具体的な生身の体を現して人類を救済され、観世音菩薩も生身の体を現して我々を救うと「法華経」では説かれているけれども、観世音菩薩の実態というものは、人様の肉体ではなくて自分自身の肉体であると言う事がこの永嘉真覚大師の言葉から知る事が出来る。

また麻谷禅師と臨済禅師との間では、観世音菩薩の持っているのと同じ様な、正しい手、正しい眼と言うふうな話題を中心にしてお互いに問答されたと言う事が伝わっているし、それらの話というものも沢山ある観世音菩薩に関する説明の1つ2つの例に他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は、法華とか臨済や永嘉大師の話、それよりも雲巖禅師と道吾禅師の話が一番「観音」の意味をよく表していると言いましたね、先生もそうお思いになりますか。

先生
私もこの「観音」の巻を読むまでは観世音菩薩というものをどう理解していいのかわからなかったんですよ、正直言うと。「法華経」には「観世音菩薩普門品」というのがあって、人間が殺されそうになると観音様が助けに来て下さる、海が荒れて自分の乗っている船が難破した時にも観音様が現れて救って下さるというふうなことが書いてあるわけだけれども、さてそれがどういう形で我々の日常生活の中に出てくるかというふうに考えていくとどうしてもわからなかった。

ただ道元禅師がこの「観音」の巻で説明しているのを読んだ時に「ああそうか、観世音菩薩というのはこういうものか」という事がやっとわかった。だから私にとってはこの「観音」の巻というのは非常に貴重な巻。この巻を読まなかったら私は観世音菩薩というのが何を意味するのか一生分からなかったっと思う。

「法華経」を何百遍読んだとしても「観世音菩薩普門品」の中に出てくる表現が何を意味するか、というのはよくわからなかったと思う。
                            つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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