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正法眼蔵 行持(下) 5

達磨大師は釈尊から数えて第28代目の正統な後継者である。しかも父の国王が領有していた大きな国を離れて、中国の人々を救済しようとされたのであるから、誰が肩を並べる事ができよう。もし達磨大師がインドからはるばると中国に渡来することがなかったならば、中国の人々はどうして釈尊の説かれた正しい教えを見たり聞いたりする事ができたであろう。

達磨大師が中国に仏道(坐禅)を伝えなかったならば、中国の人々は単に仏教を学問や理屈として勉強するだけに終わってしまったであろう。今や我々のように日本と言う辺境遠方の地に住むものまでが、十分に釈尊の教えを聞く事が出来る様になった。そして現に田畑で働く農夫や民間の老人子供に至るまで仏道を見たり聞いたりする事が出来る様になった。これらの全ての事柄は達磨大師が遥々とインドから南の海を渡って中国に来られた実践の賜物である。

インドと中国とでは、地方的な事情については大きな優劣の差がある。また地方に根ざした風俗に関しても大きな邪正の違いがある。中国の当時の状況からするならば、達磨大師の様に釈尊の真実を得た人がわざわざ出向いていくような国ではない。そういう事情にも関わらず達磨大師が中国に行かれたのは、あらゆる事を耐え忍ぶ非常に大きな慈悲心を持っておられたからである。

当時の中国には達磨大師が住むに適した道場もなかったし、また本当に価値のある人の人格を理解する人も少なかった。そこで達磨大師は嵩山の麓で滞在することが9年に及んだ。人々は達磨大師の事を、壁に向かって坐っているインドから来た僧侶という意味で「壁観婆羅門」と呼んだ。そして歴史を書く人が、達磨大師を坐禅を悟りを開くためにやる人々の間に編集して入れたけれども、これは決して正しいことではない。

※西嶋先生解説
道元禅師の坐禅に対しする理解の仕方は、坐禅とは坐禅を修行することによっていつか悟りを開くという形のものではなしに、坐禅をすること自体が悟りであり、坐禅をすること自体が仏道そのものであるという考え方でありましたから、達磨大師を坐禅をやって悟りを開く人々と同列に扱ったことは間違いである、こういう解釈をしておられるわけであります。

本文に戻ります。
釈尊以来代々の祖師方によって正しく伝承されて来た正法眼蔵(正しい教えの眼目の所在)は、ただ一人達磨大師によってのみ中国に伝えられたのである。 
 


              ―西嶋先生の話―

この2、3か月における自分の健康状態というものを考えてみますと、今度ばかりは仏道を勉強しておることが、あるいは坐禅をやっておるという事が自分の命を救ったんではなかろうかという印象を持つわけであります。

大体この2、3か月どういう経緯をたどったかという事は、前にも申し上げましたけれども、自分の貧血の原因が長年のんでいた○○の薬に原因があるのではないかとか、あるいは医者は勧めてくれるけれども、入院することが本当に自分の健康を維持するのに繋がるのかどうかとか、あるいは中学の同級生(医師)に相談してみるとか、あるいは一週間ごとに血液を調べながら様子を見るとか、そういうふうな判断というものは坐禅をしておる時に浮かんできたという事が言えるわけです。

そういう点から考えますと、仏道の世界において「般若」という言葉があるわけであります。それは「智慧」と訳されておりますが、この般若(智慧)という言葉は、しょせん坐禅をしている時に生れて来る直観だと考えることが出来るわけでありまして、釈尊の教えというのは必ずしも難しい教えではない。

毎日坐禅していることによって生れてくる直観の働きを基礎にして、一生を生きることが仏道修行だ。それ以外に仏道修行はないと、そういう事を言っておられるというふうにも解されるわけであります。その点では、人間が頭を使ってあれこれと考えることはかなり儚いことであって、人間が頭の中で色々と考えることは、本人は非常に意味があるような内容のものとして感ずる場合が多いわけでありますが、実態的には我々の人生に役立つのかどうかあまりはっきりししない。

むしろ頭を使って考えるに考えて考え抜くことによって、人間が不幸になるという事もないとは言えない。そうすると、釈尊が説かれた教え――坐禅をしているところから生まれてくる直観にしたがって生きるという事、これがかなり我々の人生において意味を持ってくるのではなかろうかと、そういうふうに感ずるわけであります。


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正法眼蔵 行持(下) 4

達磨大師は527年旧暦10月19日に、こっそりと揚子江の北側の地に行った。そしてその年の11月23日に洛陽の都に着き、嵩山いう山の麓の少林寺という寺に泊まって壁に向かって坐禅を始め、一日中ものを言わない生活をしていた。しかしながら当時の魏の国王は素質が十分でなかったために達磨大師の存在を知らなかった。そしてその事が恥ずかしい事だと言う道理さえわきまえてはいなかった。

達磨大師は南インドの国王の息子である。大きな宮殿の中の生活にも慣れ、その仕来りにも習熟している。そこで魏のような小さい国の習慣の中には、そのやり方の上でもその考え方の面でも、顔を赤らめる様な事もあったに違いないが、達磨大師はそれらの事に心動かされる事なく、中国を見捨てず、中国の人々を見捨てるという事もされなかった。

当時、菩提流支三蔵と言う僧侶がいた。その僧侶が達磨大師の評判が高くなる事を憎んで様々な誹謗中傷をしたけれども、達磨大師は余り問題にされなかった。また光統律師と言う僧侶が誤った考え方を持って達磨大師に危害を加えようとしたけれども、これを遺恨に思うだけの価値もないと考え耳を貸そうとしなかった。

この様に達磨大師には優れた徳性が多く具わっていたのであるけれども、当時の中国の人々が達磨大師の事を、仏経経典を勉強する僧侶や経典や論議についての教えだけを与える師匠であると考えた事は大変愚かな事であり、これは当時の中国の人々が仏教の大きな立場というものをまだ十分理解していなかったからである。

達磨大師は坐禅を中心とした宗派として、一つの種類の仏教の教えを説かれたのであるにもかかわらず、ある人々は達磨大師が説かれた教えと、議論を中心とした師匠たちの教えとは似たような教えであろうと考えていた。この様な考え方をする人々は、釈尊の教えを乱し汚すところの思想的に範囲の狭い畜生に類した人々である。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は出家はできないんですから、ただ坐禅をしたり仏道を信じていればそれでいいという事になりますと、出家という大事な形式をとらないから、受戒をさせていただいただけでは出家ではないですから、ここに一つの大きな段階がありますが、そこは我慢しなくちゃいけないというわけでしょうか。

先生
そこでね、坐禅というものの救いはあるんですよ。在家であろうと、出家であろうと、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしておる状態というものは、在家だとか出家だとかというレッテルは貼れないんですよ。だから朝晩坐禅をしておれば仏道修行としては最高のものだ。仮に出家という形をとっておっても、朝晩坐禅をしなかったら仏道修行者ではないと断言して間違いない。

質問
出家している人は、朝晩坐禅をするに決まっているんでしょう。

先生
決まっていない。やる人はやるだけのことです。そこが大事なところですよ。これから仏道が盛んになるか盛んにならないかは、坐禅が行われるか行われないかだけの問題ですよ。今日までの様々の制度、組織が今後どう変わっていくかわからない。特に仏教が世界に広まっていくためには、どういう形で広まっていくかさえわからない。

ただ個人個人の仏道修行に関連して問題を考えてみるならば、朝晩坐禅をするかしないかだけが大切で、その違いだけの問題ですよ、仏道修行というものは。だから在家というものがどういう意味を持つのか、出家というものがどういう意味を持つのかという事については、時代が変わり社会が変われば色々な変化が出てくるわけです。

質問
そうすると、出家している方が頭を剃って袈裟をつけていらっしゃっても、ろくに坐禅をなさらない様な方もあるわけですね。

先生
だからそういう形の上で考えるよりは、坐禅をするかしないかだけが全てだという捉え方で問題を考えていく必要が、今後の時代にはあるという事です。

質問
だから出家した人は偉いからああした大きな殿堂をいただいて、その中で住職だなんて坐っていられるけれども、私が坐りたくたって坐れない。そんなことをひがむという事は、やっぱり名利にこだわるみたいになりますね。

先生
だから各人が与えられた環境の中で坐禅するかしないかだけですよ、仏道修行というのは。

質問ありがとうございました。


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正法眼蔵 行持(下) 3

達磨大師は梁の都の金陵に到着して、梁の皇帝である武帝とお会いになった。

達磨大師に梁の武帝が問う。
自分は皇帝の位についてから、寺院を造ったり、経典を写したり、僧侶や尼僧を救済したりという事業を数多くやった。それによってどの様な功徳(効果)が得られるのであろうか。

達磨大師言う。
そういうことはすべて何の功徳(効果)もない。

そこでさらに武帝問う。
どういう理由から何の功徳(効果)もないと言われるのか。    

達磨大師言う。
寺院を造ったり、経典を写したり、僧侶や尼僧を救済したりするという事は、人間の世界にだけ通用するほんの小さな成果に過ぎない。かえって煩悩を起こす原因になるものだ。それらの事は実体のない影の様なもので、頭の中では何かがあると感じているけれども真の実在ではない。

武帝問う
仏道の世界において、本当の意味のある功徳(効果)というものは一体どういうものか。

達磨大師言う
清い智慧というものが微妙に行きわたっていて、体も自然に安定しており何の障害もない事だ。この様な功徳(効果)は俗世間的な努力にあくせくしている様な状態では得る事ができない。

武帝問う
それでは釈尊が説かれたこの世の中の究極とは、一体何ですか。

達磨大師言う。
明々白々として神秘的な何ものもない事だ。つまりあるものが全て本来の目的に従ってちゃんとあるという事が釈尊の説かれた究極のものだ。

武帝問う
では私の目の前におられる貴方は、一体何物ですか。

達磨大師言う。
そんな事は拙僧にもわからん。

武帝は達磨大師がどういうことを言っているのかさっぱり理解する事ができなかった。そして同時に達磨大師も当時の簗の国においては、達磨大師がインドからもってきた坐禅の修行法を中心にした仏道を武帝に説明しても到底わかっては貰えないだろうと感じた。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私共在家としてはどうしても、社会的な基準というものから抜け切れないんですね。在家の人の仏道修行はどういう方法で行けばいいかという事で、私どもの救われる道というのは具体的にはどういうものでございましょうか。

先生
その点はね、仏道というものを信じて仏道修行を始めると、その人の生活そのものが仏道以外の生活ではなくなるんです。だから在家だとか出家だとかという事よりも、仏道を信じて仏道修行をすることに尽きるという事になると思います。そのことが何によって具体的に現れてくるかというならば、朝晩坐禅をするという事です。朝晩坐禅をする限り、在家とか出家とかと言う異差がなくなってしまう。

そういう生活が仏道修行であって、それ以外に仏道修行はないというふうに見ていいと思います。だから在家とか出家とかという問題に関連して何が救いになるかというならば、朝晩坐禅をするという以外に救いはないし、朝晩坐禅をするならば出家、在家の区別もどっかへ行ってしまう。ただそこには仏道修行があるだけだという事が実情として言えると思います。

特に人間社会の生産力が低い時代には特別の職業人が仏道修行をして、その人々が一般社会の人々に教えるという事が不可欠だったわけです。幸い今の世の中というのは非常に生産力の進んだ時代。だからどういう職業についておっても、一日の内のある程度の時間を坐禅に使うだけの生活の余裕というものが生まれてきているわけです。

その点では、日本の国の様な経済水準の高い国ではそのことが言えるとしても、まだ東南アジアにはそういう事態まで進んでいない国があるかもしれないけれども、幸いにして、日本の経済事情を考えてみるならば、各人が今日では自分に与えられた日常生活の一部を坐禅のために使うという事が初めて可能になってきた。そういう恵まれた時代に我々は生きているという事は言えると思います。

このことは昭和20年以前には日本においても、可能であったかどうかが疑問になるほど経済情勢は厳しかったという事が言えると思います。今日の我々ほど、日本の歴史を通じて恵まれた時代に生きている者はいないと言ってもいいほど、我々の今日は恵まれた時代にあるわけです.恵まれた時代においては、大いに恵まれた環境を活用して坐禅に励むという事が、在家、出家の問題を乗り越える最大の手段だというふうに見ていいと思います。


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正法眼蔵 行持(下) 2

達磨大師が中国に来られた時の説話は続きます。

我々の生きている環境の全てが国王の宮殿の様に素晴らしい世界だと言う事実から考えるならば、達磨大師が3年の歳月を費やして中国に行かれた事も決して不思議ではない。そしてまたこの世界には様々な国があるけれども、様々な国のどこの宮殿が仏道の道場になり得ないと言う事があろうか。

この様な事情から達磨大師はインドから中国に渡られた。そしてただただまだ真実を知らない人々を救済しようという自分自身の意思をしっかり持っておられたから、どんな事態に出会っても、驚いたり、疑いを持ったり、恐れ足りという事がなかったのである。この宇宙全体が迷った人々を救いたいという念願に燃えた世界であるから、驚いたり、疑いを持ったりすることがなく、恐れるという事もなかった

達磨大師は香至国の第三王子だったと伝えられているが、永久にもう自分の国には帰らないと決心をして父親の国土である香至国を離れ、大きな船を準備して、南の海を経て中国の港である広州に到着した。その船に乗り込んだ人々も多かったであろうし、達磨大師の身の回りの世話をする僧侶の数も多かったであろうけれども、時の記録係がその事は記録に残さなかったようである。

達磨大師が中国の港について以降、その達磨大師の港に着かれたことを承知した人がいなかった。その時というのは簗の国の普通年間の8年9月21日(西暦527年)の事であった。たまたま広州の地方長官であったところの粛昴という人が達磨大師が到着された事を知って、重要な主賓に対するやり方で達磨大師をお迎えし皇帝である武帝に書面で報告した。

これは粛昴が行った極めて大切な仕事であって、粛昴が極めて厳格な人であり、皇帝に対する忠節な人であったからこの様な事が行われたのである。この報告を受けた梁の武帝は、すぐさまその報告の書面を見て非常に喜んで、使者に対して皇帝からの書面を持たせて、達磨大師にぜひ国王のところに来てほしいと招招待申し上げた。その使者が着いたのがその年の10月1日であった。


               
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
思考と感覚との問題で例えば、ものに感動すると言うのはどういうふうに解釈されるんですか。例えば絵を見て感動するとか、音楽を聴いて感動するとか。それにのめり込むのもいけないわけですか。

先生
いや、いけないという事ではなしに、結局坐禅と言う中心がしっかりしておればいいんですよ。思考と感覚が発達してきて、坐禅と言う中心があって感動すると言う事が人間の本当の感動の仕方なわけです。ところが坐禅という中心がないと感動に主体性がない。そうすると感動に引きずり回されるというふうな事もある。

そういう点では、ものを考えるにしても、ものを感じるにしても、自分自身というものがしっかり確立されていないと、人間らしい生活ができなくなる。だから歌手に熱中して「キャ-」なんていって大騒ぎしているけれども、あれも決して悪い事ではないけれども、ああいう事で一生過ごしたんでは人間としては困るわけでね。50才になっても60才になっても「キャ-ッ」なんて言ってたんじゃ、これは人間としては、ちょっと成長が遅いという事になるわけですね。だから自分というものをしっかり把握するという事が、人生の過程ではかなり大切だと言う事ですね。

質問
前のところなんですが、雪峰禅師が師匠をあちこち探して求めたという事は、非常に迷っていたという事ですか。

先生
それはそうですよ。仏道修行と言うのはやっぱり迷いに迷うもんですよ。迷う事がなければ目的地に着かんという事、これはありますね。「いや、俺はもう達観しているから迷わないんだ」と言う事は決してないんでね。迷う人の方が素質がある。「私はもう達観してしまったから、そういう仏道なんてアホらしい事は全然関係ありません」と言う場合には、仏道と言うのは一生わからないで終わるわけです。ところが「これでいいのかなあ、これでいいのかなあ」と言って、一所懸命やっているうちにだんだん見えてくるわけですね。だからそういう点では、迷う人の方が真実に到達する素質があるという事は言えると思います。

質問
ここに紹介されている方々は迷ってほうぼう師匠を訪ねて歩いておられますね。こういう必要はもはや先生の場合は卒業しておられるんでしょうか。

先生
その点では、まあ、あんまり口はばったい言い方になるからねえ(笑)、まああんまりはっきり言わない方がいいのかも知らんけれども、あの人の教えを聞いてみたいという人は、今生きておられる方では、まあなかなか見つけにくいという事はありますね。

こういうことを言うと、たいへん不遜のように聞こえるし、またたいへん不遜なことではあるけれどね。だから仏道以外の事でいろんな人の知識を得たいというふうなことはあるとしても、仏道に関しては、あの人の意見を聞いてみよう、この人の意見を聞いてみようという希望はだんだん減って来たね。――というふうなことです。


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正法眼蔵 行持(下) 1

中国における第1代目の仏教教団の指導者である達磨大師がインドから中国に渡られたことは、師匠である般若多羅尊者のご指示によるものである。

達磨大師は東南アジアの海を経て三年を要し中国に渡られた。その航海における年月は自然の脅威が耐え難いばかりでなく、まだ航海の方法も発展しておらずいつ船が沈むかもしれないと言う不安定な状態であるから、その長い行程における危険というものは大変なものであったであろう。ましてや全く未知の国で仏道を広めるのであるから、自分の体が大切、自分の命が大切と常々考えている凡庸な人々にとっては思いも及ばないところである。

しかし達磨大師がこの事を敢えてなされたのは、ただただ釈尊の説かれた教えを伝えたい、迷った人々を救いたいという大きな慈悲心から生まれた行いによって初めてあり得たことであって、それ以外の事情でとうてい起こり得るようなことではない。

達磨大師は釈尊の教えをしっかりと身につけた自分自身であればこそ、中国に行ってそれを伝えようという気を起こされたのであろうし、すべての世界が法に満たされた世界であったればこそ、まだ仏道の伝わっていない国に仏道を伝えようという気持ちで中国に渡られたのであろう。

また、宇宙のあらゆる方角(東西南北)が全て、釈尊の説かれた真実そのものの世界であるから、まだその釈尊の教えが思想として具体的に人々に把えられていない地方に行って、釈尊の教えを伝えそれぞれの国における真実をはっきりさせる事を考えられて中国に渡られたものであろうし、宇宙そのものが達磨大師そのものとまったく別のものではないという境地に立っておられたから、中国に渡られたのであろう。

我々の住んでいる宇宙というものはありのままの世界であって、あれこれと解釈を必要とする世界ではないから、達磨大師は現実の世界に生きておられたればこそ、中国に行って釈尊の教えを伝えようと言う気持ちを起こされたのものであろう。


 
              ―西嶋先生の話―
    --つづき
                            
文明がだんだん進んできますと、人間というのはだいたい凡夫の生き方になる訳です。文明はものを考えるという事が基礎に待っておりますから、思考と感覚の二つの世界を行ったり来たりする。釈尊はこういう二つの世界を行ったり来たりしている人々を見て、気の毒に思った。何とかその状態から人間を救い出そうという事で、我々に勧められたのが坐禅。こう言う事がいえようかと思うわけであります。
  
だからそう言う点では、凡夫とは坐禅をやらない人。仏と言うのは坐禅をする人。そういう事が凡夫と言う言葉と仏と言う言葉との中身の違いだと、そういう事も我田引水の立場から言えるという事があるわけであります。私が言うと我田引水に聞こえる訳でありますが、いま申し上げた事は全く事実、我々の生活における疑問の余地のない事実だと言う事が言えるわけであります。
  
自分に中心を持ってゆっくり落ち着いた生活をするか、あるいは自分の中心を持たないで、あっちこっちと一所懸命に駆けずり回って、苦労していい結果が出るかよくわからんと言う形で一生を終わるかと言う違いでしかない。釈尊は自分をしっかり把握して自分として好ましい一生を送ると言う事は誰にでもできると言われた。苦労に苦労を重ねて、結果がいいか悪いかよくわからないうちに一生が終わってしまうと言う事を避けるために釈尊は仏教と言う教えを残された。そう言う事がいえ様かと思う訳であります。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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