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正法眼蔵 坐禅箴 21

そこで南嶽懐譲禅師がさらに示して言う。「お前が坐禅を勉強しているという事は、実は坐った形で仏そのものになっていることだ」と。

南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
南嶽懐譲禅師が言われた言葉を大いに勉強して、釈尊以来代々の祖師方によって伝えられてきたところの大切な要点というものを判断し自分のものにすべきである。我々はふだん坐禅というものを勉強しているけれども、それが一体根本的にはどういうものかという事が中々わからないわけであるが、この南嶽懐譲禅師の言葉によって、坐禅をするという事は坐った形の仏を学ぶことであると知ることができた。

この様に南嶽懐譲禅師のような釈尊以来の正しい伝統を継承してきたところの仏弟子でない限り、どうして坐禅をする事が坐った形で仏を勉強している事と言う事が出来よう。

銘記せよ。初心者が初めて行う坐禅は、その人にとっては最初の坐禅であるには違いないが、坐禅をした瞬間から坐った形で釈尊と同一の人格になった姿である。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

三番目の「持戒」というのは戒律を守るという事。仏教では戒律というものを定めて、仏教徒になる儀式のときにも受戒(戒律を受ける)という式があるわけであります。―中略―

仏教が説き始められた最初には、仏教徒の具体的な生活の中で、いろいろこれはやるべきではないと言う規則が出来たわけでありますが、それがあまりにも数が多くなって、あまりにも複雑になってしまったという事情があったわけであります。それで釈尊が亡くなられてから4、5百年経った時に生まれてきた大乗仏教の立場では、たくさんある戒律を十六の戒律につづめた。―中略―

こう言う十六の戒律を守るという事が仏道修行においてかなり大切な事だというところから、三番目の波羅蜜として「持戒」と言うものが生まれて来たわけであります。

それから四番目の波羅蜜は「精進」という事で、精進というのは努力するという事です。我々の日常生活というものは、ほっとけば何とかうまくゆくだろうという事で努力しないでいるとおかしくなっていく。我々の日常生活というものは、どうしても努力がいる。

朝起きる時でも、起きようと思って起きなければ、いつまで経っても寝ている事になる。何とかして起きようと思って努力をするから起き上がれる。ご飯を食べるにしても、自分が口をあけてジ-ッとしていたら、誰かがご飯を箸で挟んで口に入れてくれるかと言うと、そんなわけにはいかない。各人がやっぱり、箸を持って茶碗を持ってご飯を食べなければご飯さえ食べられない。まして、勤めに出かけるについては、自分で身支度をして足を一歩一歩前に出さなければ会社に近づかない。

そういう点では、我々の日常生活と言うものは努力なしでは成り立たない。仏道修行と言うものは努力がいると言う事が「精進」と言う波羅蜜が設けられた背景の事情であります。だからそういう点では、信仰というものが大事だから、信仰さえあるならば全部ケリがつくというわけのものではない。信仰も大事だけれども、その信仰に基づいて努力をしなければ、仏道修行が進まないというふうな問題もあるわけであります。


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正法眼蔵 坐禅箴 20

南嶽懐譲禅師の「牛車が動かない場合に、車を打った方がよいか、牛を打った方がよいか」という質問に対して、馬祖道一禅師は答える事なく黙っていた。

馬祖道一禅師の態度について道元禅師が注釈されます。
馬祖道一禅師が返事をしないで黙っていたと言う事情をうかうかと見過ごしてはならない。馬祖道一禅師が示した態度というものは、敷瓦のような価値の低いものを投げ捨てて、価値の高い宝玉を取り上げるという態度であり、首の向きを変えて、さらに顔の表情を変えるということに相当する。

※西嶋先生解説
これはどういうことかというと、いずれも行動というものを説明しておられるわけであります。馬祖道一禅師が南嶽懐譲禅師の質問に対して、「実はこれこれでございます」というふうに理屈をこねて反論しなかったという事の意味は、行いそのものの一つであって、たとえば非常に価値のないものを投げ捨てて、価値の高いものをとるとか、あるいは頭の向きを変えて表情を変えるというふうな実際の行動である、という事を理解すべきである。

道元禅師の注釈に戻ります。
馬祖道一禅師が南嶽懐譲禅師の質問に対してつべこべ言葉で返事をすることなく、黙っておられた態度というものは、馬祖道一禅師の独立独歩の態度であって、決して他の人が批判をしたり変えさせる事の出来ないものである。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

二番目の忍辱というのは、恥ずかしさを忍ぶという事でありますが、単に恥ずかしさだけではなしに、苦しいことを忍ぶという意味もあるわけであります。我々の人生いうのは、決して波風のないものではない。非常に苦しい事がいくらでもあるわけです。

そういう苦しい事があったときに、ジ-ッと我慢をするか、やけを起こして自分の生活を乱してしまうか、という問題に関連して、苦しい事が仮に起きても、あるいは人から軽蔑を受けた、辱めを受けた、悔しいという場合でも、ジ-ッと我慢するかどうかという問題に関連して、仏教では、人生は様々な場面があるから、我慢しなければならない時にはジ-ッと我慢しなければならないと言う事が「忍辱」と言う項目の教えであります。

我々が人生というものを考えていく場合に、人生の結果がいいか悪いかの一つの基準は、不遇の時に腐らないかどうかと言う事、不遇な時にジ-ッと我慢できるかどうかと言う事が、かなり大きな問題としてあると思います。たまたま不遇に陥った時に、それが辛抱できなくて、自分自身を捨てるという事があると、人生そのものがおかしくなってしまう。だからそういう点では、自分の不遇の時にジ-ッと我慢して、時間がたつのを待つだけの力があるかないかと言う事が、人生をどう送るかと言う事の分かれ目になると、そういう問題があろうかと思います。
                            つづく--


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正法眼蔵 坐禅箴 19

南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

牛を打つ(心の問題として坐禅を考えていく)というやり方が世間一般の考え方としてあるけれども、釈尊の説かれた教えの中において、牛を打つとはどういうことかをさらに学んでみなければならない。それは去勢された水牛に譬えられた自分自身を打つことなのであろうか、鉄の牛に譬えられた師匠としての心のあり方を打つことなのであろうか。泥の牛に譬えられた一般人の心境を打つことなのであろうか。

坐禅の修業の対象は様々である。各人の坐禅の内容もそれぞれ様々な状態を示すものである。そしてまたその牛を管理するやり方としても鞭で打つ場合もあれば、宇宙全体でその牛を打つという事もあるし、心全体で牛を打つという事もある。骨髄を打って打って打ちのめすという行き方もあるし、げんこつで殴るということもあり得る。そういう様々な形があり得て、具体的にそのどれを採用するかと言う問題が我々の実人生の中にはいくらでもある。

さらに究極の捉え方として、拳で拳を殴るという事があり、牛で牛を打つという事がある。

※西嶋先生解説
この事はどういうことかというと、拳は拳なりにありのまま、牛は牛なりにありのまま、自分は自分自身でありまま、この世の全てのものがそれぞれ何らかの人間の意志を混えずに、きわめて自然に厳然として実際に存在しているという事を、拳を拳で殴る、牛で牛を打つという言葉で表しているわけであります。だから拳は拳、牛は牛という事で、それぞれのものがありのままに存在するということを意味しておられるわけであります。



              ―西嶋先生の話―

きょうは、仏教の主な言葉の説明として「六波羅蜜」と言う言葉を説明しておきたいと思います。波羅蜜というのは、梵語の「パ-ラミッタ」と言う言葉の音を漢字で表した言葉でありまして、言葉の意味は「到彼岸」と訳されおります。「到彼岸」というのは、向こうの岸に着くと言う事。向こうの岸とは、真実の世界と言うこと。真実の世界に行き着くと言う事を「パ-ラミッタ」と言う言葉で表現しているわけであります。

「六波羅蜜」というのは、この真実に到達する道として六種類のものがあると、こういうことが言われておるわけであります。何かと申しますと、第一が布施、二番目が忍辱(恥ずかしさを忍ぶ、苦しいことを忍ぶ)、三番目が持戒(戒律を守る)、四番目が精進(努力をする)、五番目が禅定(坐禅)、六番目が智慧、という六つの項目を指すわけであります。

まず最初の布施というのはどういうことかというと、人に物を与えるという意味であります。我々は物というものに関連して、自分の物・他人の物という考え方があるわけであります。大抵の人は自分の物が増えればいいと思う。これは人情の常。で、たまたま他人の物も欲しくなる事がある、他人の物を何とかして自分の物にしたいと言う気持ちも、人間だれでもあるわけであります。

ところが、そう言う心の状態というものが人間の普通の状態かどうかという事について、仏教は反省を持ったわけであります。人間の普通の気持ちとしては、自分の物が欲しい欲しいだけが本当なのか、あるいは自分に余っている物があれば、人にも上げましょうという気持ちになる方が普通なのかという問題に関連して、自分の持っている物で人にあげられる物はあげましょうと言う気持ちが、普通の人間の気持ちだ、とそういう事を主張されたわけであります。

だからそういう点で、人に物をあげると言う事が、仏道修行の一つの項目として大切だと言う事を「布施」と言う言葉で説かれているわけであります。
                               つづく--


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正法眼蔵 坐禅箴 18

南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

また「牛車が動かない場合に、車を打った方がよいか、牛を打った方がよいか」と言われているところから見ると、車を打つという場合もあり、牛を打つという場合もあるということを勉強しなければならないようにも思われる。

※西嶋先生の話
ここで「車を打つ」とか「牛を打つ」とかという事で何を意味しているかというと、坐禅に関連して言うならば、坐禅を心の面から見るという場合が「牛を打つ」という事にたとえて差し支えない、坐禅を体の面から見る場合に「車を打つ」というふうにたとえて差し支えない。だから我々が坐禅をやっている場合に、気持ちが落ち着くとか落ち着かないという気持ちの状態として捉える場合と、筋肉が緊張しているとか、足が痛いとかという体の問題として捉える場合と両方ある。

その点では、人間のものの考え方には二通りの代表的な考え方があって、心を中心にして問題を考える考え方と、物(体)を中心にして問題を考える考え方と二通りあるけれども、仏道は両方を共に考えるという問題があるから、「車を打つ」という事もあれば「牛を打つ」という事もある。つまり、体を問題にして坐禅を考えていく場合もあるし、心を問題にして坐禅を考えていくという場合もある。

道元禅師の注釈に戻ります。
車を打つという事、牛を打つという事がまったく同じなのか、あるいは別々なのか、その辺も考えてみなければならない。世間的な常識からするならば、車が前に進まない場合に車を打つという方法はない。世間の常識的な立場からするならば、車を打つという方法がないという事が実情であるけれども、釈尊の教えは体の方から管理していくという問題もあるという事が、この南嶽懐譲禅師の言葉から知れるのである。

我々の人生を体の方から管理していくという事もまた、釈尊の教えを勉強していく上においては非常に大切なことである。そして坐禅に関連して言うならば、体のほうから管理していくという事と、心のほうから管理していくこととは、まったく同じだというわけにはいかない事情がある。その点を事細かに考えてみる必要がある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき
         
坐禅をやっている時には、今までの自分だと思っていたものがどこかに行ってしまう。そして「自分はこんなに真面目ではないはずだ」と言う確信があるんだけれども、そういう本来の自分とは違うと思われる様な状態に自分が坐っている。いつも自分と思っていた過去の自分と言うものがどこかに行ってしまう。過去の様々な行いによって築き上げた自分というものが壊れて行ってしまう。そういう事情がある訳です。

その過去の自分が壊れていくと言う事が誰にとっても怖い。だから坐禅をやらないという事は怖いと感じてやらない、あるいはやめてしまうという事情がある訳です。仏道修行とは、過去に築き上げた自分と言うものを壊して本来の自分に立ち返る、というのがねらいです。

ですからそういう点では、坐禅をやるという事が仏道修行の全てであると言える訳ですが、今日の考え方からすると、坐禅をやると言う事はどうも信じられない、意味が解からないと言う事情がありますし、また本来自分だと思っているものが何処かへ行ってしまうという不安に耐えられないと言う事情もあって、坐禅を中々やらないという事があろうかと思います。


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正法眼蔵 坐禅箴 17

馬祖道一禅師の「それでは一体どうしたらいいのでしょうか」という問いに対して、南嶽懐譲禅師言う。「人が仮に牛車を走らせている場合に、車がどうしても前に進まなかったならば、車を打った方がよいか、あるいは牛を打った方がよいか」と。

南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
ここで「牛車が進まないならば」と言っているが、牛車が進むというのはどういう事なのか、牛車が進まないと言うのはどう言う事なのか。常識的に上面だけの理解でなしに、我々の日常生活の実態に即して、進むとか進まないとかという事が一体どういうものかという事を考えてみる必要がある。

たとえば水が流れると言う事は、牛車が前に進むという事と同じ意味であろうか。水が流れないという事は、牛車が前に進むと言う事と同じ意味であろうか。元来流れるという事は、水が前に進まない事だという事もできるし、水が前に進むと言う事は、流れると言う事とは別だという場合もあるであろう。

水が動いているという事が水が流れていないという事と同じ意味にとり得るという事がある。逆に水が動いていなくても、車がそばを動いていれば、水が流れているというのと同じように見えることがある。

したがって「牛車が前に進まなかったならば」と言う言葉を学ぶに当たっては、牛車が本当に動かないと言う場合も勉強すべきであるし、牛車が動かないなんて事はありえないという学び方もすべきである。なぜかというと、これらの動くとか動かないとかと言う事は、いずれも現在の瞬間における出来事でしかないからである。「牛車が前に進まなかったならば」と言うその言葉の意味は、ただ動かないという事だけを言っているわけではない。

※西嶋先生解説
この辺は道元禅師の思想というものが進んでいたという事の一つの表われ。我々は時間というものを頭において問題を考えるという習慣はわりあい少ない。平面的に理屈の上だけで問題を考えるという事が多いわけでありますけれども、本当の人生というのは時間との兼ね合い。時というものがどんどん、どんどんと流れていくというところにおいての問題であるから、その点では車が進むとか進まんとかというふうな両方の状態があり得る。一方的にどっちだというふうな固定的に考えては、実体そのものが分からなくなる。人生そのものが分からなくなる。複雑なこの世の動きというものが分からなくなる。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

4:道諦(坐禅の立場)
仏道修行をするためには、まず坐禅が仏道修行の中心だという事を道元禅師は言われた。本当かどうかわからないけれども、とにかく馬鹿正直に信じてやってみようという感じで毎日の坐禅をやらない限り、仏道修行は始まらないと言う事情がある訳です。ですからその点では、中々人に勧める事は難しい問題があります。

仏教の立場から言うならば、坐禅をしている時の状態が真実の世界です。坐禅をしていない時の我々が普通に行っている生活は、頭の中でいろんな事を考えたり、感覚的な刺激を受け入れていると言うふうな二つの状態の中で行きつ戻りつしている。これを仏教では、こちら側の岸(此岸)向こう側の岸(彼岸)と言う訳です。此岸というのは真実から少し外れて、何が何だかよくわからないけれども、一所懸命に生きている世界。彼岸というのは真実の世界。

坐禅は、坐禅を長らくやっているといつの間にか向こうの岸に着けると言うものではなくて、坐禅をやっている状態そのものが向こうの岸にいる状態という事である訳です。ですから、坐禅を始めた時から彼岸に坐っている、と言う事が言える訳です。ところが、そういう結構な状態に坐っている事をなぜ人は嫌がるかと言うと、一つには、今までの「自分だ」と思っていたものがどんどん壊れていくと言う事情がある訳です。
                                つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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