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カテゴリ:27・坐禅箴のエントリー一覧

  • 正法眼蔵 坐禅箴 43

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。たとえば、川の底の砂や小石がすっかり見えるほど水が澄んでいる小川で魚が悠々と泳いでいる、そういう状態が坐禅の中身である。坐禅の形容としての水がきれいだという事の意味は、この世における水というものはそう徹底してきれいなものではない。何が徹底してきれいかと言えば、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っている時の我々そのものが、徹底してき...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 42

    宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。何らかの言葉の中に規則を見つけ出して、それに従って一所懸命行動してはならない、これらの形容は坐禅における自分自身で自分を照らしている坐禅の境地を言っているのである。坐禅の中身と言うものは、主観と客観という二つの対立関係ではない。二つのものに分かれていないから、どちらがよくてどちらが悪いというふうな選択はない。そしてこの様な事態を渾然...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 41

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。坐禅をして自分自身を照らしていたというその状態というものは、ああしたい、こうしたいと言う特別の作為はなかったけれども、それがきわめて素晴らしいものである。何か中身があって「アッ、これが坐禅だ」と言うものが感じられるかと言うと、きわめて僅かな動揺の兆しというものも表れてはこない。ただ坐っているだけである。この場合のきわめて僅かとは宇宙...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 40

    宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。坐禅という形を整えて仏という形を保つならば、すでに分別を経験し尽くした具体的な仏と言うものが坐禅の形でいまここに坐っている。分別の考えがないと言う事は、一切の智慧が具わっているという事である。智慧が具わっていると言う事は、頭の中だけの問題ではなしに、体全体、心全体で現実に坐禅をしている自分自身が今ここにあると言う事である。別の言葉で...

  • 正法眼蔵 坐禅箴 39

    宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。我々がものを考えるという事と何かがわかるという事とは一つのものになっていて、人に教えられたからわかると言うものではなしに、考えるという事もわかるという事も乗り越えたところに、自分の力でわかってくるものがあるという事に他ならない。その何かがわかってくると言う事が、抽象的な心の中だけの問題かというと決してそうではない。この宇宙がどういう...

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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