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坐禅とこの頃思うこと

私が西嶋先生の正法眼蔵提唱録と図書館で偶然であってから十年がたちました。その頃は、西嶋先生のご自宅で直接お話を聞ける事になるとは思いもよりませんでした。三年ぐらい前から、夫と月に一度先生を訪ねて三人でお茶を飲みながら、世間話をしたり私たちの質問に答えたいただいています。

先生は今年九十歳になられます。仏道を世界に広めようと毎日ブログを英語と日本語で書いています。先日お伺いした時には、フランス語も勉強していました。先生のお人柄にふれるたび、釈尊であり、道元禅師の教えそのものだと思えます。私たちは、月に一度先生を訪ねて、時々孫(九ヶ月)に会いに行き、そして毎日朝に坐禅をして、昼間はお店で一所懸命仕事をして、夜坐禅をし、その後ブログを書き、そして寝ます。これが私たちの日常です。

私は坐禅を始めてから,過去に生きられない、未来にも生きられない、今この瞬間を一所懸命生きる事、それしか出来ない。頭の中で考えれば、過去も未来もあるけれど、今出来る事はこの瞬間しかないと言う事がハッキリわかりました。そしてクヨクヨしたり、迷ったり、後悔する事も少なくなった様な気がします。


読んでいただきありがとうございます。


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コメント
350:ぼくが ここに by おおはな on 2014/06/19 at 11:54:39 (コメント編集)

最近、まど・みちおさんの「ぼくが ここに」
をいう詩を読みました。
とても感動しました。独坐大雄峰ということの意味がこの詩で良くわかりました。まどさんには他にも存在についての詩が数多くあります。今、自宅の詩集を読み直しています。

351:Re: ぼくが ここに by UFO on 2014/06/19 at 22:25:11

おおはなさん、コメントありがとうございます。
まどみちおさんについては、「ぞうさん」や「一年生になったら」など、童謡の作詞をされた方というくらいしか知りません。
私は「正法眼蔵」で習った、「この山で毎日坐禅していることくらい素晴らしいことはない」と言われた百丈禅師の言葉が「独坐大雄峰」だと思っています。
それは私も毎日坐禅をしているので、同じ坐禅をしている者として「うん、うん」とうなずけます。
「独坐大雄峰」については、その言葉が後々の解釈によって大げさに考えられ過ぎて、仏道の真意を誤解しすぎているのではないかと西嶋先生も言われていました。
まどみちおさんの詩で「独坐大雄峰」ということの意味がよくわかったとありますが、素晴らしい詩なんでしょうね。





プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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