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般若心経 5

心無礙罣。無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顚倒無想。究竟涅槃

心無礙罣
仏道修行者は、心の中にさまざまな障害持っていない。邪魔になるのものがない。心が鏡のようになっているから、直観的な能力は豊かに具わっているけれども、それを頭で考えてさまざまに悩む心配もない。あるいは感覚的な刺激にとらわれて、それに引きずり回される事もない。

無罣礙故  
このような、心の障害を仏道修行者はもっていないところから

無有恐怖  
一切のものを、ありのままに受け入れるならば、怖がることは何もない。恐怖の存在することがない。 

遠離一切顚倒無想  
間違った価値判断や、事実に反する考え方から遠く離れて、最高の平和な境地を手に入れる事が出来る。

顚倒(上、下が逆になっている状態)・無想(事実でないことを、頭の中で考えること(人間を不幸にする一つの原因)・涅槃(サンスクリット語のニルバ-ナ、火が消えた状態を意味する)

※西嶋先生の解説。
この世の中にお金があります。お金は大変便利なもので、お金があると大抵の事は具体化する事が出来る。実現する事が出来るという性格をもっているが、お金を積みあげる事、貯める事を人生の最高目的にすると人生が実に寂しいものになる。人によっては「いやぁ、お金がやっぱり大事だ」と感じる人もあると思いますが、それでは一億円を眼の前に積まれたら、命を失っていいと考えるかどうかと言う事になると、大抵の人はそうはいかないのではないか。一億円をもらったら、自分の命はなくなっていい、と考える人もいるかもしれないが、「いや、一億円よりやっぱり自分の命のほうが大切だ]と考える人もいる。そしてそのほうが普通の考え方です。ただお金のほうが大事だという心に凝り固まると、えてして「お金以上に尊いものは、この世の中にはない」という考え方に陥る場合が間々ある訳で、そういう状態を「顚倒」と呼んでいます。

三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。即説呪曰。羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。般若心経
 

三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提  
過去、現在、未来における、たくさんの仏と呼ばれる人々は、坐禅の時と同じ様な自律神経のバランスした状態の中で生活しているから、その様な状態の中で釈尊がお説きになった「最高の均衡の取れた真実」を自分のものにすることが出来る。
 
故知般若波羅蜜多
そうすると「般若波羅蜜多」が、どういうものであるかが解って来る。

是大神呪・是大明呪・是無上呪・是無等等呪  
つまり、非常に大きな神秘的な力を持った言葉である。非常に偉大な、非常に意味のはっきりした言葉である。最高の言葉である。最高の均衡を持った言葉である
    
とは仏教では「短い言葉の中に非常に神秘的な力がある」という信仰があり、いずれも「般若波羅蜜多」が、どういうものであるかをほめた言葉です

能除一切苦
「般若波羅蜜多」に依る事によって、すべての苦しみを取り除く事が出来る。自律神経のバランスした状態の時は、人間の心も体も鏡のようになる。一切の物が鏡に映る様に、人々の心の中に・体の中に現れてくる。それは我々の住んでいる現実の世界、法の世界、ダ-ルマの世界とまったく一つのものであるから、苦しみの生まれてくるはずがない。つまり、この世の中の一切のものを受け入れる態度が「般若波羅蜜多」の態度であり、その様な状況の中では、苦しみが生まれてくるはずがない。

真実不虚   
我々の生きている世界が、真実そのものである事は、けっして嘘ではない。例えば坐禅をしている時、我々の体の状態が均衡して現実に直接触れることが出来る。現実そのものが真実であり、嘘ではないということを確認することができる。
 
故説般若波羅蜜多呪   
そこで、この「般若波羅蜜多」を表現するような言葉が説かれている
 
即説呪曰
その「般若波羅蜜多」をあらわす言葉として、次のような言葉が説かれている 
 
羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶     
すでに到達している。すでに到達している。向こうの岸に到達している。完全に到達している。真実に幸あれ。

羯諦・羯諦(到達している)・波羅羯諦(向こうの岸の真実にすでに到達している)・波羅僧羯諦(完全に彼岸に到達している)・菩提薩婆訶(幸あれ)・菩提(真実)・薩婆訶ほめ称える言葉



          ―西嶋先生の話―  
    
今日、一般に般若心経を説かれる方々は、「この世の中は何もないんだ」と、釈尊がお説きになった教えであり、その事がわかって来る事が釈尊の教えがわかり「般若心経」の意味がわかる事だという説き方が行われております。しかし、私は道元禅師の思想を何十年となく勉強して来ました。仏教の教えは、この世の中は何もないという教えではない。むしろ、この世の中はダ-ルマそのものであり、法そのものである。

そのダ-ルマ(法)に比較するならば、人間が頭の中で作り出した思想も、また人間の感覚的な喜びもほとんどゼロに等しい内容のものである。我々の住んでいるダ-ルマ(法)そのものを体全体で感じとるために我々は坐禅する。体全体でダ-ルマ(法)を感じ取った時に直観的な能力が生まれ、直観的な能力を頼りにして人生を生き抜くことが出来る。そういう状態が、すでに真実に到達した状態である

この世の中は何もないと言う教えではなく、我々の住んでいる世界がいかに素晴らしい世界かを主張している事になります。こういう理解にならざるを得ない様に私は見ております。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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