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般若心経 4

無無明亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。
無明から始まり、老死に至る「十二因縁」の一切のものが、その表面に張られたレッテルに過ぎない。「十二因縁」の一切のものが人間が考え出した説明にすぎない。それと同時に、無明に始まり、老死に至る「十二因縁」を否定する訳にはいかない。

無明(心の働き。特に頭で物を考えたり、何かを知ったりと言う心の動きが劣っていると言う事)・無無明(無明に無で「無明もない」と言う事。つまり、頭の良いとか悪いとかは、必ずしも重要な問題ではない)・十二因縁(無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死)
仏教は、極めて合理主義的な思想である。この世の一切のものは、一分一厘の狂いもない因果関係によって、すべて捉縛されていると説く。そしてその因果関係の連鎖として「十二因縁」を説く。
1何の秩序もない無意識(無明)から2行為(行)が生まれる3 行為の結果、意識(識)が作られる。4.意識が作られると、それに対応した客観世界(名色)が意識される。5 客観世界が成立すると、それを感受する六つの感覚器官(六処)、すなわち眼・耳・鼻・舌・皮膚感覚(身)感覚中枢(意)が機能を発揮する。6その結果、接触(触)があり、7 感受(受)があり、8. 愛着(愛)が生まれる。9 そして愛着は、取得(取)と言う行為をうながし、10取得が所有(有)と言う状態を結果する。11この所有と言う状態は、人に生存(生)という実感を与える。12 生存はやがて、老衰や死(老死)につながる。

※西嶋先生の解説。
我々の人間社会では、頭が良いとか頭が悪いとかを大いに問題にする。たくさんの知識を持っている事を希望する。理解力が優れている事を希望する。頭が良いか悪いかは、人間の価値を決める重大な基準とされています。しかし、仏道の立場では必ずしも重要な問題ではない。それと同時に「頭の良い人と悪い人とは、全く同じだ」と言う主張でもない。各人がそれぞれの本分に従って生きているのが、我々の生きている現実の世界である。だから、頭が良いとか悪いと言ってみても、たいして大きな問題ではない。それと同時に、頭の良いとか悪いとかと言う違いがある事を無視する事もできない。

無苦集滅道。無智亦無得。似無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。    
 
無智亦無得 
智もなくまた得も無い。したがって人間が何かをつかむと言う事はあり得ない。ダ-ルマがあって、その中で生きているだけの事である「智]は頭の働きであり、その働きを人間は非常に重要視する。 人間がダ-ルマを理解する、解釈することが行われているけれども、解釈そのものと実在とは違う。この世の中の実体がわかる事と、実在そのものとは違う。

似無所得故無所得ヲ以テノ故ニ 
我々が人生を生きている場合に、あれが欲しい、これが欲しいという希望がある。そしてそれを、自分のものにしたという満足感が日常生活においてある。それを、さらに大きな立場で考えてみると、我々自身が「法」と言う大きな物の中に含まれている。我々が大きな宇宙の中に生きている実情を考えるならば、あるいは「法」と言う大きな世界の中に生きている実情を考えるならば、何かを得たとしても、ごく一部のものが「法」の中で移動したに過ぎない。自分が得た、失ったと言う理解の仕方が本当に正しいのかどうかが、釈尊の教えの基礎にあり、自分が得たとか失ったとかという事も、宇宙全体から眺めるならばほとんど問題にする事の出来ない様な内容のものである

菩提薩埵。依般若波羅蜜多故    
真実を求めて努力している人々は、真実に到達する為の直観的な心の動きに頼るがゆえに。
  
 四諦の教えも無いという事は、苦諦・集諦・滅諦・道諦は言葉による説明であってダ-ルマ(宇宙の秩序)そのものではない。  ※四諦の教え
苦諦(人間が自分の心で考えだした理想の世界、それを基準にした考え方)・集諦(人間の感覚を使って、この世を物質として眺めていく考え方)・滅諦(人間の頭で考えだした世界と人間が感覚的につかんだ物質の世界と その両方を乗り越えた世界(我々の日常生活における行いの世界)・道諦(真実そのもの) 
 

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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