トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

般若心経 3

舎利子。是諸法空想。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。

釈尊が舎利子に呼びかけられた。
是諸法空相
この世の中の一切のものが、ありのままの姿を示している。
不生不滅
過去、現在、未来と一つの線の様に時間が繋がっていれば、生まれる事が考えられるし消滅する事も考えられる。しかし我々の生きている世界が、現在の瞬間だけだと言う事になると「今、事実がある」と言うだけの事である。何かが生まれて来たとか何かが消えて行く事は、頭では考えられるけれども、我々の人生そのものではない。

不垢不浄 
素直にこの世の中の実情を受け取るならば、穢れているとか清らかであるという判断そのものを乗り越えて、厳然たる事実が眼の前にある。

不増不減 
この世の中は、不足しているから増やさなければならないと言う事情も、余分なものがあるから、それを削らなければならないという対象でもない。現実が眼の前に「ありのまま」に存在する事が、我々の生きている世界であって、そういう世界を素直に受け入れるべきである。

是故空中無色
我々は眼に見えるもの・耳に聞こえるものを『色』と読んでいるけれども、その様な名前はレッテルにすぎない。「法」という実在に比較するならば、人間の言葉による説明は一応の説明であって、実態そのものではない。

無受想行識
そういう意味で「色」もない」受」もない「想」もない「行」もない「識」もない。

無眼耳鼻舌身意
人間は「眼」を持っている、「耳」を持っている、「鼻」をも持っている、「舌」を持っている、「身」体を持っている、「意」感覚の中枢を持っている、という形で感覚器官を持っている。けれども、それも人間が説明のためにつくり上げた言葉にすぎない。

無色声香味触法 
眼で見るものが「色」、耳で聞くものが「声」、鼻でかぐ事の出来るものが「香」、舌で味わう事の出来るものが「味」、体で触れるものが「触」、感覚中枢によって捉えることの出来るものが「法」、宇宙の実態でありますがそのようなものも言葉にすぎない。
 
無眼界乃至無意識界
眼」が対象としている世界から、「意」が対象とする世界までがある。そういう感覚器官の対象になる一切のものも、言葉としての説明としてはあるけれども、そういう言葉そのものが存在する訳ではない。現実の事態と言うものがあって、それを説明したいために人間が言葉を発明し、その言葉を使って説明しているに過ぎない。



          ―西嶋先生の話―

観世音菩薩が、坐禅をしながら言葉のはかなさに気がついた。現に自分は足を組み手を組み背筋を伸ばしてジ-ッと坐っている。その実態そのものを基礎にして問題を考えていくならば、人間が言葉を使って、さまざまの説明をしこの世の中を解釈しようとしているけれども、そのような解釈よりもっと大切な事がある。それは、「この世の中に現存する実在そのもの」である。


 
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-