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正法眼蔵 弁道話 13

弁道話の巻、十八問答に入ります。

「十八問答」とは、「仏道とはどういうものか、坐禅とはどういうものか」私たちがよくわからない事を道元禅師ご自身が質問を出され、道元禅師ご自身がそれに対して答るという質問形式で、私たちに丁寧にわかりやすく解説しています。坐禅(仏道)を理解する上においては、非常に有益になろうかと思います。

いまこの坐禅の効用が非常に高いという事を聞き終わった。そこで愚かな人は疑問を持って言うであろう。
質問-1
釈尊の説かれた宇宙の秩序というものには、その入り口が沢山ある。沢山の入り口があるにもかかわらず、なぜ坐禅だけが良いとしてしきりにそのことを勧めるのか。

坐禅は、釈尊が説かれた宇宙の秩序の正しい入り口であるからである。
     
質問-2
なぜ坐禅だけが正しい入り口と言われるのでしょか。  

偉大な師匠である釈尊が、坐禅の修行により真実を把まれた。また、過去、現代、未来において如来(真実を得られた方々)が、いずれも坐禅という修行法を通して真実を把まれた。この様なところから。坐禅が正しい入口であるという事を伝えて来たのである。しかもそればかりではない。インド、中国の諸先輩たちも、みな坐禅によって真実を把まれたのである。

※西嶋先生解説。
釈尊は29才で出家されて、35歳で真実に到達されたと言われている。したがって、出家をしてから真実に到達するまで6年間の修業期間があった。その6年間の修業期間のうち色々な師匠について真実を求めたわけであるけれども、その師匠から教えられた修行法として坐禅があった。その坐禅をやることによって釈尊は真実に到達された。そして釈尊はその弟子たちに対して坐禅を教え、その坐禅をやって真実を得るということを教えられた。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
お盆になりまして、いろいろお参りすることが世間にはいっぱいありますね。それからこのあいだ地鎮祭がございました。そういうようなことは、道元禅師の考え方からいたしますと、みんな迷いの現れみたいに見えますね。

先生
ただそういうふうにああいう問題を捉えるべきかと言うと、必ずしもそうではないと思います。それはどういうことかと言うと、人が亡くなった場合に、亡くなった人がどう考えておるか、どうあるかは別として、失った人々は心の悩みがあるあるわけですよね。そうすると霊送りもしたい、あるいはお盆の行事もしたいというのは、これは生き残った人の自然な気持ちとしてあるわけですよ。それが仏教とどう関係があるかと言う様な事は別にして、我々の人間社会における習慣として、習俗としてそういうものがあった時に、「あれは本当ではない、けしからん」と言う風な事は考える必要がない。

それから地鎮祭の問題については、私なんかはあれは宗教的な問題ではないとみている。つまり、神主さんがやってきて、なんだか意味の分からんことを言って紙切れを振り回すことが宗教と関係あると言ったら、関係はありませんという見方ですね。だからどんな形でやろうといいんだし、それに列席すれば、まじめくさって立っていればいいんだし、ああいうことと宗教問題とが関係あると考える方がおかしい。だから「あれは宗教なりや、宗教にあらず」と言う論議そのものは甚だおかしいんで、私は「宗教にあらず」と言う判決も納得できるような気がする。

ああいうものはもう宗教と無関係だと考えてもいい。どんなことをやろうと、それは人間社会の習俗であって、我々の本当の信仰の問題と密接な関係はないということ。ああいう式に列席したから、お釈迦さんに対して義理が悪いということはない。だからああいうものは適当に、社会の習慣に任しておけばいいというだけのものだと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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