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正法眼蔵 面授 20

承古禅師の説法について道元禅師の注釈は続きます。

汝(承古禅師)は黄檗禅師のことを批評して、馬祖道一禅師が亡くなってからまだ五年しか経っていないのに、馬祖道一禅師の法を継ぐことが出来なかったと言って黄檗禅師の境地を批判したけれども、その様な汝の批判というものが、実に滑稽で笑うだけの価値もない。

仏教界の実情から言うならば、仮に釈尊の法を継ぐだけの力量を得た場合には、その先輩が亡くなってから無限の長い時間が経過した後でも、その法を継ぐ事は可能である。それと同時に、釈尊の説かれた教えがよくわかっておらず、法を継ぐだけの力量がない場合には、師匠が亡くなってから半日たった後でも、あるいは師匠が亡くなってからほんの一瞬間たった後であっても、その師匠の法を継ぐことが出来ないという事も言える。

ところが承古禅師、汝は釈尊の説かれた教えにおいて、太陽の姿、月の姿がどういうものかという事さえ眼に入らない、仏教の理解に暗い者であり、愚かな者だというふうに言わざるを得ない。汝は「雲門禅師が亡くなってからすでに百余年を経たけれども、雲門禅師の法を継ぐことが出来ると」と言っている汝けれども、汝に非常に優れた力があって雲門禅師の法を継ぐことが出来ると主張しているのか。

もし汝がそのような主張をしているのであれば、汝の主張は三歳の赤子が主張している言葉よりさらに頼りないと言える。たとえ汝が「雲門禅師が亡くなってから百余年を経たけれども、自分は雲門禅師の法を継ぐことが出来る」と自分自身で主張したとしても、雲門禅師が亡くなってから千年経った後であっても、本当に釈尊の説かれた教えを理解する境地に達した者は雲門禅師の法も継ぐことが出来るのである。そのような形で雲門禅師の法を継ぐ人とお前とを比較した場合に、その人の力量はお前の持っている力の十倍の力を持っているであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
自分が死ぬまでの間に、こうして坐禅の修行が出来たという事は、私本当にありがたいのですが・・・。

先生
うん、うん。その通りだと思いますよ。だからね、理論を勉強する事は苦しみを重ねるんです。一所懸命、宗教問題を理屈だけで勉強していると苦しくて苦しくてしょうがない。ますます自分の行動の動きが取れなくなるという事情があると思います。で、そういう苦しさを何によって開放する事ができるかと言うと行いなんです。実行なんです。

だから坐禅というものにはそういう意味があって、坐禅がなぜ救いになるかと言えばそれは理屈ではない、行いだからです。その中身というものを「心身脱落」と言われている。つまり、心が脱け落ちるというのは理屈がいらなくなる事。体が脱け落ちるというのは、様々な体の間違った習慣から開放されると言う事でしかないわけ。

そういう開放された状態は行いによって得られる。そういう意味で坐禅が仏教思想の中でかなり大きな意味を持っている、そう言う事になると思います。だから仏教と言えども、坐禅がなければ救いにならないということが言えると思います。理屈がわかってきても人間は救済されないんですよ。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
夫と店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。    

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