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正法眼蔵 洗面 26

三千威儀経について次の文章が付け加えられました。

インドにおいても中国においても、国王、王子、大臣、役人、在家の人、出家の人、官民の男女、庶民に至るまですべての人が顔を洗う。家庭生活の道具の中にも顔を洗う桶があり、銀で作られたものもあれば錫で作られたものもある。地の神々を祀った場所においても、毎朝その神々に顔を洗う道具を捧げている。

また仏道の真実を得られすでに亡くなった方々の墓のそばにも、顔を洗う道具を捧げるという事が行われている。家庭生活を送っている在家の人も、家庭生活を離れて出家している人も、顔を洗った後に衣服を整えて、天を礼拝し、神を礼拝し、祖先を礼拝し、父母を礼拝する。師匠を礼拝し、仏・法・僧を礼拝し、宇宙における一切の生きとし生けるものを礼拝し、あらゆる方角にいる神々を礼拝する。

今日ではインドや中国においても、農業に携わっている人々や漁業や林業に携わっている人々までも、顔を洗うという事を忘れてはいない。しかしながら楊枝を噛んで歯をきれいにするという習慣はインドにも中国にもない。ところが日本の国では、国王、大臣、老人、若者、官界、民間、在家の人、出家の人、僧侶といったあらゆる階級の人がいずれも、楊枝を使い口をゆすぐというやり方を忘れていない。

しかしながら顔を洗うという事はしない。インドや中国とわが国とでは一長一短である。しかし今、この道元が主宰している永平寺においては、顔を洗う事と楊枝を噛んで歯をきれいにする事と両方を保持して、それを実際にやっていることは、今まで欠けていたものを補って、それを盛んにするという事実を示すものであって、真実を得られた過去の祖師方が十分に見ているところであり、その祖師方が自らこの永平寺に下って来られて、実際に我々の行いを見ておられると言う事が出来る。

        「正法眼蔵洗面」
        1243年 旧暦の10月20日
        福井県吉田郡の吉峰寺において「洗面」の巻を衆僧に説いた。
        1250年 旧暦の1月11日
        福井県吉田郡の吉祥山永平寺において「洗面」の巻を衆僧に説いた。


西嶋先生解説
この「洗面」の巻は、ここに書かれているだけでも三回説法が行われているわけであります。ですから道元禅師がこの「洗面」の巻を非常に大切に考えられたという事がわかるわけです。普通の宗教的な考え方から行きますと、こういう具体的な日常生活のあり方というものはあまり宗教的な意味がないという理解の仕方をされるわけでありますが、仏教思想とはどういう行いをするかという事が中心になっている思想でありますから、朝の顔の洗い方が仏道修行そのものであるという観点で、道元禅師は非常に重要視してこの「洗面」の巻を書かれたという事が言える訳です。



              ―西嶋先生の話―

今日は欲望という問題について申し上げておきたいと思います。欲望という問題は非常にくだらん、つまらない話の様でありますが、宗教に関連しては非常に大切な中心的な問題になるわけです。また仏教の欲望に対する考え方は他の宗教の欲望に対する考え方と少し違うという面があるわけです。

ですから、欲望の問題を仏教でどう考えているかという事がわかってきますと、仏教という宗教がどういう考え方を持っているかという事がわかりやすくなるという面もありますので最初に欲望の話をしたいと思うわけです。欲望の問題を考えていく場合にも、仏教の原則に従いまして、苦・集・滅・道という四段階で問題を考えていきます。

まず最初に「苦諦」の立場で仏教が欲望をどう見ているかという事を考えてみたいと思います。苦諦とは頭で問題をどう考えるかという観点からの問題の取り上げ方になるわけです。その場合に仏教が欲望をどう考えているかと見てまいりますと、欲望を罪悪視しないという態度が仏教には基本的にあるわけです。
                              つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
夫と店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。    

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