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正法眼蔵 洗面 25

三千威儀経について道元禅師の注釈は続きます。

一般的に言うならば、楊枝を噛んで歯をきれいにし、顔を洗うという事はまさに古仏(過去において真実を得られた方々)の正しいやり方という事になるし、真実を得たいという気持ちを持ち、真実を求めて一所懸命努力している人々は必ず実践し体験をしなければならないところである。

湯を手に入れることが出来なかった場合には、水を使って歯を磨き、顔を洗うという事も古くからの仕来りとして行われており昔から定められたやり方である。

そしてお湯や水がいずれも手に入らない場合には、朝早く十分に顔を布で拭いてから、香りのよい草や粉末の香などを顔に塗った後、仏像を礼拝する、経典を読む、香を焚く、坐禅をするという事をやるべきである。まだ顔を洗っていない時には、様々の仏道に関する行事をするということが、いずれも礼を失したことになる。

             「正法眼蔵洗面」
             1239年 旧暦の10月23日
             観音導利興聖宝林寺において衆僧に説示した。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
汚いから体を洗うという事ではないし、きれいになりたいから体を洗うということでもないと言う・・・。私のごく自然な考えだと、今日は一所懸命働いて汗が出たから、それじゃ一風呂浴びようとかと、そういう感じになるのが普通だと思うんですが、ここではそういうふうじゃないですね。これはどういう事なんでしょうか。

先生
これはね、行いのほうが中心だという事ですよ。ですから、体がきれいな時にも洗う、汚れたら洗う、これは両方とも日常宇生活にあるわけです。ですから今言われた様に、今日は体が汚れたから洗うという事はいっこうおかしくないわけです。ただ何が尊いかといえば、洗う動作が尊いんだと、こういう事。きれいになった、きれいにならないという事ではなくて、きれいにする行いというものが仏道だと、こういう主張です。

だから今日は体が汚くないから洗わないでいいんだという事ではない。朝、顔を洗うという問題にしても、今日は顔がきれいだから洗わなくていいという事にはならない。綺麗であろうと、きれいでなかろうと、朝、顔を洗うのが仏道だと、こういう主張をしてしておられる。

質問
という事は、例えば道徳の一つというふうに考えてもいいわけですか。

先生
道徳というよりも、仏教的な考え方を基準にして生活するならば、どうしてもこうならざるを得ないという主張です。ですから道徳の一種と捉えることは間違いではないです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
夫と店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。    

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