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正法眼蔵 陀羅尼 3

このように問題を考えてくると、釈尊が持っていたと同じような心境の要と言うものは、優れた高徳の僧侶にお仕えする事態の中に全てが集約されるのである。釈尊と同じ境地に立たれた方々にお仕えするに当たっては、優れた花を捧げ、優れたお香を焚いて師匠にお仕えする事が駄目というわけではないが、自分の心身を平静な状態においてお仕えすることが、さらに優れた修行のやり方である。そのようなやり方で師匠にお仕えする事が釈尊の子孫たる道である。

大陀羅尼(偉大な万能の力)とは何かと言うならば人事である。人事とは師匠に対する挨拶と言う意味であり具体的には礼拝の事である。師匠に対する礼拝は偉大な万能の力を持っているのであるから、我々は幸いにして現にその様な万能の力を持った礼拝に出会う事ができたと言える。人事と言う言葉は中国の言葉であるけれども、人に対する挨拶というものは釈尊以来正しく伝承されたところのものであり、この世のすべての基準である。

人と人との挨拶というものは、言葉が聞こえるとか、態度がどう眼に見えるかと言うだけの問題ではない。世界最古の仏とされている威音王仏の出現以前だとか出現以後だとかと言う、時間の前後によって問題を考えるべきではない。無限の過去から人と人との間における挨拶はあり得たのであり、それは古い新しいの問題と言うわけない。

その様な人と人との挨拶に関連して、仏道の世界ではお香を焚いてご五体投地をする事である。師匠を考えた場合にも、自分が出家する時の師匠もあれば、法(釈尊の説かれた教え)を伝えてくれる師匠もある。法を伝えていただいた師匠が、同時に出家をした時の自分の師匠であると言う場合もある。これらの自分の師匠に対して例外なしに拠処し奉仕することが、教えをたずねるにあたっての万能の力となるのである。

※「陀羅尼」の巻は主に師匠に対する挨拶や礼拝です。自分は在家でありますから「陀羅尼」の巻はここで終わりにします。次回は道元禅師が入浴や洗面というありふれた日常動作につき、その仏教的な意味を述べられた「洗面」の巻に入ります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
非常に不幸な人がありまして、それをどう慰めてやったらいいか、救ってやったらいいか・・・。
  
先生
慰めはないね。自分で立ち上がるしかないんです。はたから「気の毒だ、気の毒だ」と言われたところで、幸福にはなりませんよ。 だからそういう場合には、本人が「よし、これじゃいかん」と思って、立ち直らなくてはやっぱりいいとこへ行かんですわな。

質問
来世を楽しみってわけにはいきませんか。
    
先生
ないな、それはないね。来世があると主張すれば、それは罪深い話ですよね。でたらめですよ。それは人は喜ぶよ。非常に喜びますよ。「いやぁ、もう来世があるんだから、いま悲観しなくてもまあ大丈夫ですよ」と思って、力も付くかもしれないが本当かどうかと言う事になるとね。だから来世というよりも、いま心がけ次第で幸福になる事のほうが大事だと思います。
 
質問
そしてまた、いま不幸なのは過去の報いであるというのは・・・。

先生
ええ、それはありますよ。今の不幸はあなた自身がつくったのだ、と言う事はありますよ。また両親の影響で今の不幸があるんだ、と言う事これも否定できない。ただそうかと言って「俺はもうだめだ」と思っていたらいつまでも駄目なんです。どんなに不遇でも「よし、何とか頑張ろう」というところから人間の幸福は出てくるわけだ。だから「あなたはツイてないから、もう永遠に駄目ですよ」という必要はない。そんな事は絶対にない。どんに不幸な人でも、やることを変えればすぐに幸福になれるわけだ。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
夫婦で店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。     

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