FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 無情説法 26

投子大同禅師にある時僧侶が質問した。「無情説法と言う言葉がありますが、その言葉の意味はどういう意味でしょうか」。それに対して投子禅師は「悪い言葉を口にしないことだ」と言われた。

ここで投子禅師が言われている言葉は、永遠の意味を持った真実を得られた方の言葉であり、まさに釈尊の教えに関する基準である。また仏教界における諸先輩の方々の述べられた教えでもある。心理作用に煩わされないものの説法と言う意味の「無情説法」と言う言葉や、釈尊の教えを説くと言う事は心理作用に煩わされていない状態であると言う意味の「説法無情」と言う言葉など様々な表現があるけれども、結局のところ無情説法とは「悪い言葉を口にしない」と言う事に尽きる。

銘記せよ。無情説法(自然が釈尊の教えを説く)という事は、釈尊の持っておられた真実の全てが無情説法という教えに尽きるし、それは悪い言葉を口にしないという事に尽きる。このような教えと言うものに関連しては、臨斉禅師や徳山禅師の仲間の人々は承知する事が出来ない。ただ釈尊の説かれた教えを本当にはっきりと身に付けられた方々だけが、この様な言葉を参究する事が出来るのである。
                    
              「正法眼蔵無情説法」
              1243年旧暦10月2日
              日本国北陸地方吉田郡の吉峰寺において衆僧に説示した。




           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅は自力修行の教えで「他力」の思想がないので、本物ではないと言う人がいますが それは本当ですか。

先生
この考え方には坐禅の本質に対する根本的な誤解があります。 およそ宗教に「自力」などというものはない。参禅者の心境は坐禅によって悟りを開くというような思い上がったものではない。坐禅に頼る以外、真実を求める方法はないと思い定め、真摯にすがるような気持ちで求めるのが坐禅ですよ。その意味で坐禅は私達の救いであり、憩いであり、慰めです。

質問
先生は人間が一所懸命やる行動すべてが仏道修行だといいますが、行いにも善悪があると思いますが、悪事に没頭するたとえば泥棒三昧なんていうのは・・・・。
 
先生
その点では、仏道の世界は善悪を乗り越えた世界ですな。 善悪にこだわっている時には、坐禅の境地と言うのは無いんですよ。 普通は善と悪があって、悪を離れて善につけというのが普通の宗教の教えです。 仏教には、それは間違いだと言う主張があるわけですね。つまり、善だ悪だとこだわっているうちはいい事は出来ない。

善悪を乗り越えた世界で、一所懸命にやるのが真実の世界だと言う事でもある。これが仏教思想、非常に特徴のある思想です。日常生活の経験からすると本当なんですよ。つまり夢中にやっている時に本当の生活があり、本当の人生があるというのが実情です。そうすると善いか悪いかと頭の中で考えている状態、つまり余裕のある状態、切実でない状態は、真実の世界ではないと言う考え方が仏教にはある。

西洋思想の場合は、善と悪とに分けて、善がどう悪がどうと言う事で何千年も思想が発達してきたわけです。 仏教思想のような形で善悪を乗り越えるという中に、本当の意味の実際生活があると考えざるを得ない面があります。


ご訪問ありがとうございます。応援クリック頂けると嬉しいです。コメントもお持ちしています。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

フリーエリア

ご訪問ありがとうございます。 にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
夫婦で店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。     

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

FC2カウンタ-