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正法眼蔵 無情説法 23

洞山良价禅師と雲厳曇晟禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

眼で声を聞くという言葉があるからといって、眼が耳を持ち眼が耳と同じような作用をすると理解すべきではない。眼と耳とが全く同じもので一つのものと理解することも誤りである。眼の中で声が生まれてるのだと理解すべきものでもない。長沙禅師は「この全宇宙というものが自分の一つの眼だ」と言われたけれども、その様な宇宙と同じ大きさの眼で声を聞くならば無情説法が聞こえてくるであろうという意味で、洞山禅師は「眼で聞く」と言われたのであろうと想像だけで考えるべきではない。

たとえ長沙禅師のいわれた「「この全宇宙というものが自分の一つの眼である」という言葉を勉強した場合でも、長沙禅師が言われている通り、全宇宙はたった一つの眼にすぎないともいえる。そういう表現以外にも、観世音菩薩が持っていると言われている千本の手の先にある眼という見方もあるし、釈尊の説かれた正しい教えを見る眼が現にこの世の中にあるという捉え方もできるし、無数の耳を目も持っているという捉え方もあるし、、無数の舌の先に目がついているという理解の仕方もできる。

無数の心にも目があると理解することもできるし、心全体に目が行きわたっているという捉え方もあるし、体全体が眼であるという捉え方もできるし、無数の棒の先にも眼があるという見方があるし、現在の体の直前の瞬間における無数の体にも眼がついているという理解の仕方もできるし、現在の心の直前の状態にも無数の眼がついているという理解もできるし、一切のものが死に絶えた、あるいは無数の死んだ状態があるという事を想定した場合には、そこにもやはり眼が存在するであろうと考えられる。

生き生きとした一切の動きの中にも生きた眼が具わっていると言えるし、自分自身にも無数の眼がついているという事ができるし、自分以外のものにも無数の眼があるという主張が成り立つ。無数の眼には眼が着いているという主張もあれば、仏道を勉強する眼も無数に存在する、もっと具体的に、縦についている眼も無数にあるだろうし、横についている眼も無数にあるであろう。この様に眼というものを考えて見ても、人間の顔の上の方に二つ並んでいるというだけが眼ではない。眼に関連しても無数の状態が考えられる。



              ―西嶋先生の話―                      
     --つづき

日本国民は第二次世界大戦を経験いたしまして、普段は中々勉強できないような貴重な勉強をしたわけであります。それは人間の生活にとって物質がいかに大切かという事を、実際の生活の中で嫌と言うほど勉強させられた。まず第一には食糧の欠乏。戦争がだんだん激しくなってきますと、食糧事情というものが一年一年と悪くなっていったわけであります。そうして国民はそれぞれ日本精神を100%頭に詰め込んでおりますから、ご飯を食べなくても平気なはずであるけれども、中々そうはいかなかった。ご飯がないと体は震えてくる、気持ちはイライラしてくるという事で、人間の生活に非常に重大な支障が生れて来るという事を戦争の生活の中で嫌と言うほど経験した。

それからまた戦争の実体に関連いたしましても、武器がなければ戦争にならないという事実もだんだんはっきりしてきた。その点では、日本国内における武器の生産が一年一年低下していきますと、最後には「竹槍で頑張ろう」という考え方もあったわけでありますがそれで勝てたかと言うと、中々そうはいかないという形で、日本は第二次世界大戦を契機にして、人間の生活の根底には物質があるという、こういう勉強を嫌と言うほどさせられたという事があったわけであります。

ですから、昭和20年8月15日という日を境にいたしまして、日本国民の持っておった宗教が完全に入れ替わったと、こういう事があるわけであります。で、8月15日以降、国民は人間の生活において、物質的な基礎がいかに大切であるかという事に気がついた。そこで、今度は「物だ、物だ」という考え方が盛んになりまして、食糧事情についても、どんどん、どんどん価格が上がっていくのを、国民が一所懸命買いあさって今までとは違う食糧事情になってきたわけですし、それからまた食糧事情が落ちつきますと、次は衣料の問題があり、衣料の問題が落ちつくと、今度は住宅問題があるということで、昭和20年の8月15日以降、日本国民は物質的にいかに豊かになるかという事について、また非常に大きな努力をしたわけであります。

それから産業界においても、生産第一主義という事で、経済活動が人間社会の全てであるというふうな錯覚も生まれてきて、その結果、日本の経済というものが、世界の人々がビックリするほど急速な発展を遂げたという事情もあったわけであります。ですから、人間の生活において、物質というものが基礎にあるという事は無視できない。しかしそれと同時に、物質的なものが人間生活の全てかというと、そうは言い切れないというのが釈尊の教えであります。
                                 つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
夫婦で店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。     

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