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正法眼蔵 無情説法 18

洞山良价禅師と雲厳曇晟禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊以来代々の祖師方(真実を得られた方々)によって、代々正しく伝えられてきた教えを身につけている人が正しい師匠である。愚かな人々が心に記憶としてとどめ暫くの間でも忘れないという事は、説法を聞くという効果が多少ではあるけれども、心に説法の効果というものが行きわたって感じられる時期だという事が言える。

まさにそのような時点においては、体全体、過去における体全体、心全体、過去における心全体、心の今後における全て、一切の直接原因、一切の間接原因、一切の果報、一切の人間の行い、一切の外見、一切の本質、一切の実体、一切の力、真実を得られた人々全て、教団指導者の全て、主観客観の全て、皮、肉、骨、髄という一切のものに亘って、法を聞いた功徳が具わっている。

説法の一切、日常生活(行住坐臥)の一切が具体的に現れ、天地一杯にみなぎった状態であるという事が言える。説法を聞く事から生まれる効果は、簡単にそれが分かるという性質のものではないけれども、釈尊の教えを身につけた方の説法の席に参加して、釈尊の説かれた教えの皮・肉 ・骨・髄を参究した場合、説法が持っている力や影響力が聞く人々に影響を与えない時期はないのであって、説法を聞く事に伴う宇宙秩序(釈尊の教え)の影響力が効果を及ばないところはある筈がない。

この様な形で説法が行われ、説法を聞く事が行われる事により、ある場合には一瞬のうちに過ぎてしまうとか、ある場合には永遠に近い様な長期にわたって、結果が現実のものとなる事態を見聞きするのである。沢山の事を聞き沢山の事を覚えている事も強いて投げ捨てるべきではないけれども、ほんの一部分の問題だけが大切な要点であると考えるべきではない。仏道を学ぶ人々はこの事を銘記すべきである。洞山禅師は説法に関するこの様な事情を体を通じて十分に理解されたのである。



              ―西嶋先生の話―

我々は子供の頃から学校で色々と教えられて来ている。「良心や善心というものは非常に大切なもので、それがなくては人間ではない」と。ところが仏教では良心や善心というものが目立って自分の心の中に感じられるうちは、まだまだ本当の自分が出てきていないと言うわけである。その事がどういう点で実際の生活に役立つかというと、実際生活でいろんな判断をするときに一番正しい現実的な判断とは、自分の心の中にある良心と悪心とが一つに重なった時に出てくる。
   
良心と悪心とが別々にあるうちは、「本来はこの様にしなければならないが」と言う事を自分の心の中で考える。ところがあまり良心的にばかり考えると現実に合わなくなる場合もある。実際には損をしてしまうという問題に出くわす。そうすると、良心に従いたいんだけれども実際に従うと損をしてしまう。そういう問題がどうしてもある。そうすると、判断する場合「どっちにしようかなあ」と言ってウロウロ、ウロウロ迷う。

たいていの場合は、良心だけに従っていてはとても飯が食っていけない。そうかといって良心にそむくのも気がとがめると言う事で、何となくどっちつかずの中途半端な判断をするというのが大体普通の生き方である。ところが心の中における善玉と悪玉とが一つに重なって消えてしまうと、判断する場合にすぐ現実的な判断が出来る。それはどう言う事かというと、物事を空にする。

頭の中で良心を基準にして考えるという事もなくなったし、ただ損得だけを基準にした考え方もしなくなったという状態が生まれてきた時に初めて、我々は心の中に善玉と悪玉がなくなった状態を感じる。そういう二つに分れた考え方がなくなった時には決断が非常に早い。問題をどう考えようかと思うと、すぐ直観的にパッと答えが出てくる。善玉・悪玉がなくなった状態の時には、すぐ直観的にパッと答えが出てくる。
                                つづく--


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645:判断 by 阿佐谷北 on 2019/07/10 at 12:39:01 (コメント編集)

>心の中における善玉と悪玉とが一つに重なって消えてしまうと、判断する場合にすぐ現実的な判断が出来る。

具体的にはどうしたらそうした判断が下せるようになるのでしょうか? 「良心だけに従っていてはとても飯が食っていけない。」、このことを、ここ20年程つくづく感じております。

646:Re: 判断 by 幽村芳春 on 2019/07/10 at 21:10:00

阿佐谷北さんコメントありがとうございます。

「具体的にはどうしたらそうした判断が下せるようになるのでしょうか?」に対して。
名誉と利得から良心と悪心が生まれ、片方の端には良心の価値があり、その反対側の端には悪心の価値がある。その両端から真ん中に進んでいくと良心と悪心が一つに重なって何の価値も見いだせない「空」になれる等と頭で考える事はできるのですが、いくら頭で考えてみても増々わからなくなるだけで、ここは「えい」とばかりに毎日朝晩ほんの僅かな時間でもいいですから坐禅を始めることが一番具体的な方法だと思います。

現実は常に正しいのであって、現実を肯定することが正しさです。本来正しさと善悪は全く別のものであるのにそれらはとても密接な関係にあるので、どうしても同じものと勘違いしてしまうのではないかと思います。

647:Re:Re:判断 by 阿佐谷北 on 2019/07/11 at 15:51:54 (コメント編集)

憚りながら、坐禅はやっておりますが、正しい判断を下すためという観点は持ち合わせておりません。むしろ、それは道元禅師の坐禅ではないように思うのですが、どうでしょうか?

>本来正しさと善悪は全く別のものである

この部分が分かりません。正しさ=善ではないのですか?

648:Re: Re:Re:判断 by 幽村芳春 on 2019/07/11 at 22:05:28

阿佐谷北さんコメントありがとうございます。

道元禅師は坐禅は何か目的があってするものではない、只々坐禅をする事を主張されました。もちろん先生も只管打坐を常におしゃていましたが、提唱の時には多くの人に判りやすいように具体的な表現として坐禅というものは何の目的を持たないのに、結果的に「すぐ現実的な判断が出来る」様になってしまうと言っているのです。

「正しい」は現実であり、どの様な現実であろうと素直に受け入れる事が正しさであり、どんなに時代が変わっててもって、どんなに場所が変わっても、決して正しさは変わる事はありません。反対に「善悪」は人間が主観によって多数決で決めるものであり時代や場所や個人によって常に変わってしまいます。繰り返すようですが正しさと善悪はとても密接な関係にあるので、どうしても同じものと勘違いしてしまいます。

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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
夫と店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。    

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