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正法眼蔵 蜜語 6

雲居道膺禅師と役人の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

世尊の密語(釈尊には音は聞こえていないが意味を伝えるような言葉)と迦葉不覆蔵(ありのままをすべて現していて隠しているものは何もない)と言う事態とは、一つのものの裏表であって「世尊の密語」があるところには必ず「迦葉不覆蔵」という事態がある。百人、千人の釈尊と同じような人格を持った人々がこの世に存在するならば、百人、 千人の摩訶迦葉尊者も同じ様に存在すると言う基本的な考え方を忘れずに勉強すべきである。

仏道を学ぶと言う事は、一回聞いたらすぐわかると思わずに、百回、千回となく詳細に問題を考えて、かたいものを何とかして切ろうと思って一所懸命に何回も努力する ような形で勉強すべきである。 どこかに説法の名人がいて一度話したならば誰でも、たちまちのうちに理解してしま うに違いないと考えてはならない。

この問答の中で考えてみるならば、雲居道膺禅師が現に釈尊と同じ様な境地に立っている時点においては、「世尊の密語」というものが十分に具わっているし、摩訶迦葉尊者と同じように「迦葉不覆蔵」を示しておられるのである。したがってこの問答の理解の仕方として「尚書」と雲居道膺禅師が呼んで、それに対して尚書が返事をしたという単なる事実関係のやり取りだけが「世尊の密語」であり「迦葉不覆蔵」であると理解 すべきではない。もっと問答の深い意味に立ち入って理解すべきである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「世尊の密語」と「迦葉不覆蔵」の関係なんですが、「世尊の密語」はわかるんですが、「迦葉不覆蔵」がよくわからないんです。

先生
「拈華微笑」と言う例で「迦葉不覆蔵」を説明します。「拈華微笑」と言う言葉の意味は釈尊が優曇華の花を手に持たれて、それが何を意味するかと言う事を暗示されて、摩訶迦葉尊者だけがその釈尊の言いたいと思われる意味を理解して微笑された。その場合に摩訶迦葉尊者が感じ取られたものが実はこの世の中の実在としてあると言う事が「迦葉不覆蔵」と言う言葉の意味になる訳です。

そこに沢山の聴衆がいたわけであるけれども、たった一人迦葉尊者にしかわからなかったとしても、迦葉尊者にわかったと言う事は、そこに釈尊から迦葉尊者に対して表された一つの表現があるのであって、なかったのではない。ありのままの事実がそこにあって、それが迦葉尊者にだけわかったに過ぎない。その点では何もない事が迦葉尊者に見えたのではなくて、そこにはっきり何かがあったから迦葉尊者はその釈尊の意図を察知されたとこれだけのことです。
    
だから「迦葉不覆蔵」というのは、何もないところに何かが見えるはずだと言う主張ではなくて、色メガネを外せばハッキリ何でも見えてくるという主張であって、その事が「世尊の密語」と同じ内容のものだと、そういう主張です。

質問
よく我々が日常使う言葉で質問したりされたりする場合に「何でも腹蔵なくおっしゃってください」といいますが、その「腹蔵」と言う言葉はやはり内容的に言って同じ・・・。

先生
言葉の意味は同じです。「迦葉不覆蔵」と言う言葉をもう一度説明いたしますと、赤い色メガネをかけた場合一切のものが赤く見えるために、かえって赤い色の存在は見えなくなってしまうと言う事実がある訳です。そうすると、色メガネをはずせば赤い色がハッキリ見えるんですけれども、色メガネをかけているからわからないと言う事情が一般にあるわけです。
    
だから、摩訶迦葉尊者だけが釈尊の意図を察知されたけれども、他の人には釈尊の意図はわからなかったと言う事は、迦葉尊以外の人々は色メガネをかけていた、赤いメガネをかけていたから赤い色が見えなかった。「迦葉不覆蔵」と言う言葉の意味は、迦葉尊者一人にしか見えなかったけれども、色メガネを外すならば赤い色はハッキリあった。無いと言う事ではなくて、あるものが見えた、あるものが伝えられたと言うに過ぎないとこういう言葉の意味が「迦葉不覆蔵」です。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。自営業。69歳。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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