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正法眼蔵 諸法実相 6

(法華経方便品においての)釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

この様に現に眼の前に姿が現れていると言う事は、また別の言葉で言うならば、眼の前の本質を究め尽くすことが出来るという意味である。つまり、眼の前にある外界と眼の前にある本質とは無関係のものではなくて、密接に関係している。そしてまた眼の前の本質というものが眼の前にある物質的な物体というものときわめて密接な関係にある。

また眼の前に存在するところの物質的な実体というものは、眼の前に存在するエネルギ-の存在と本質的に関係を持って来る。その様な眼の前に存在するエネルギ-というものは、眼の前に現れている様々な作用、 運動、動きというものと密接に関係している。そしてその様な作用、運動、動きというものは、眼の前に現れている様々な直接原因と密接に関係しているのであるし、眼の前の直接的な原因と非常に複雑な係わり合いを持 っている。

眼の前に置かれているところの間接の原因は、眼の前にあるところの直接の結果と密接な関係に持っている。眼の前に現れているところの直接の結果は、眼の前に存在するところの間接の結果と密接な関係におかれている。 そして眼の前の間接的な結果、あるいは環境というものが、眼の前に存在するところの本質的なもの、末梢的なものという一切のものの究極が均衡のとれた形で存在していると言う事と関係している。

この世の中における本質的なものと末梢的なものとその一切のものの究極が均衡のとれた姿で現に存在しているという言葉は、現に我々の眼の前に姿を現しているところの実体そのものであるから、果果の果(現在の瞬間における現実の絶対の結果)で「果」と言うものを捉えていくならば、結果と言うものは因果の果(原因・結果の相互関係で捉えた結果)と同じものではない。

この様に現在の瞬間において絶対の結果として現れてくるものは、ある場合には姿として、ある場合には本質として、ある場合には物質的な実体として、ある場合にはエネルギ-として、その他、因・縁・果・報と言う様々な形で現れてくるのであるから、この宇宙の中にほとんど無限に存在する様々な事物、様々な結果というものも、全て真実の姿であろう。



              ―西嶋先生の話―                              
    --つづき

そういう考え方(キリスト教)から仏教というものを考えていった場合に「諸法実相」と言う考え方が宗教の考え方としてあり得るはずがないと言う理解になる訳です。宗教というのは当然現実を否定して、現実以外のところに理想の世界を求めるものでなければならないと。したがって仏教が宗教であるためには現実肯定であってはならない。

その事は「諸法実相」と言う思想を仏教の基本的な考え方として肯定するわけにはいかない、とこういう捉え方が明治維新以降、西洋の学問を勉強し、西洋の思想を勉強して以来、我々の間に非常にハッキリした宗教の理解の仕方、仏教の理解の仕方としてあったわけであります。

ところが「諸法実相」と言う考え方は仏教の中心思想であります。ですから「諸法実相」と言う考え方を否定してしまうと、仏教思想の中にはほとんど何も残らない。何も残らない脱殻のようなものを取り扱って「これが仏教だ」と言い、「わかったか!」というふうに言われたわけであります。そうすると正直な人は「いや、分かりません」とこういう風に言う訳です。ところが正直な人ばかりはいませんから「分かりました。たいへん結構な教えです」と言う事がここ百数十年の間続いて今日に至ったというのが実情だと、こういう風に見る事が出来るわけであります。

ですからこの百数十年の間、仏教の中でも比較的現実を肯定しない立場、つまり浄土系統の仏教というものが人々にたいへんよく理解され、また盛んになったと言う事の中に、西洋思想と仏教との関係と言うものがかなりハッキリ出ているわけであります。その点では我々が本当の意味で仏教を理解していくためには、この「諸法実相」と言う考え方をしっかりと勉強して身につけるという事が仏教という思想を勉強していく上においては非常の大切だと、こういう事が言えようかと思うわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。自営業。69歳。坐禅を頼りに暮らしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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