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正法眼蔵 諸法実相 4

(法華経方便品においての)釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊は宇宙は真実の姿を示していると言われたけれども、宇宙が真実の姿を示していると言う事は、その中に生きている人間が仏道修行をやって真実と一体になって生きている事実と別のことではない。この世の中において人々が仏道修行をして、その結果として真実を得た状態と宇宙の実体とは別の姿のものではない。この世の中には様々な仏道修行者や真実を得たたくさんの方々がいるけれども、その様な方々のあり方と宇宙の実体と言うものとは別のものではない。

諸法と言う言葉を聞いて、それを観念的に宇宙はたった一つの統一されたものものだと理解する事は必ずしも正しくない。また宇宙とは種々雑多な個々の物の寄り集まりだと理解する事も必ずしも正しくない。また実相と言う言葉を聞いて、それを空間ではないと理解したり本質とは別だと理解してはならない。

実相と言う場合の実体というものは、この世の中で仏道修行をして真実を得た人々の事を言うのである。真実を得た人が抽象的にあるのではなくて、日常生活に努力し諸法実相(現に我々の眼前に展開されているこの世の中の一切のものが非常に落ち着いた状態で究極の姿を示していること)を究める事に努力しておればこそ、仏としての実体があるのである。

努力をしている状態そのものが仏であり、その結果この世の中の一切のものに通達した事が仏としての内容である。また逆に考えてみるならば、釈尊が説かれた諸法と、宇宙と、真実とは別のものではないし、真実の姿も真実そのものに他ならない。我々を取り巻いている周囲の実在がありのままの姿を示している事が真実と呼ばれるのであり、我々を取り巻いている宇宙の実在が現にありのままの姿を示している事を「真実」と我々は呼ぶのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
頭が痛く肩が痛くなんかとても気分が悪いなーって思いながらも坐禅を組んでいたら、初めのうちは辛かったけれど、痛いとか苦しいとかはこちらに置いといて、苦しい状態で坐ってみようという感じで坐った訳です。それで痛ければ痛いっぱなしと言う感じでいたら、いつの間にか気がついて見たら痛みがなくなって非常に軽くなっておりまして、ほとんど痛んでないんですね。そういう風に肉体的な苦痛を坐禅によって解消していくという実感を私は感じておりますけれども。

先生
そう。その点では仏道と言うのは、人間の体と非常に密接な関係があると見て間違いないと思います。ですから道元禅師も「正法眼蔵」の中で、体で悟るのか心で悟るのかと言う疑問を提出されて、体で悟ると言っておられる訳です。だから儒教や道教と仏教とはどこが違うかと言うと、仏教の場合には体の問題にもさかのぼって問題を考えていると言う面があると思います。
    
そのために坐禅はどうしても必要だと言う主張も出て来ていると、こう言う事がいえると思います。ですから坐禅は、宇宙の波長と自分の波長とを合わせると言う事が出来ると思います。沢木老師はよく「仏さんの波長と自分の波長を合わせるんだ」と言っておられましたけれども、足を組んで、手を組んで、背骨を伸ばしている状態というものは、宇宙の波長、あるいは釈尊の波長と自分の波長を合わせていると言える訳ですから、自分の体と言うものも否応なしによくなってこざるを得ない。
   
「少しは病気をしていたい」と思って幾ら頑張っていても、坐禅をすると病気にはなっていられないと、こういう事情があると思います。だから病気になりたい人は坐禅をやっちゃいかんと、こう言う事になるかもしれません。

※私の独り言
私は坐禅を始めて、いつのころか病気になるような気がしなくなりました・・・で始まるカテゴリ・思うこと「坐禅と病気」ぜひ読んでみてください。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。自営業。69歳。坐禅を頼りに暮らしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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