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正法眼蔵 仏道 14

石頭希遷禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。過去の真実を得られた方々から受け継いで来たところの釈尊の教えは、坐禅による心の安定、体の安定は大切であるけれども、その大切なものでさえ特に取り上げて「禅定」とは言ってはおられない。まして「禅宗」と言う呼び名で釈尊の説かれた教えの宗派を呼ぶことがどうしてありえよう。

はっきりと銘記すべきである。釈尊の説かれた教えを奉ずる宗派の人々が自分達の宗派を「禅宗」と呼ぶ事は大きな誤りである。仏道の勉強において十分でない人々が、この世の中は実在だと考える宗派、実在ではないと考える宗派と自分の宗派に様々の名前をつけて呼んでいるけれども、それと同じような宗派が釈尊の説かれた教えにもあると考えて、宗派としての称号を持たないという事は、何を勉強しているのかよくわからないという心配をして嘆く向きがあるけれども、そういう心配はない。

釈尊の説かれた教えはその様であってはならないのであり、いまだかつて「禅宗」などという名で釈尊の説かれた教えを勉強する宗派を呼ばなかったという事をハッキリと承知しておかなければならない。ところが最近における凡庸の人々は、愚かな状態で昔から伝えられている伝統を承知する事がなく、過去において真実を得られた方々から真実を受け継いでいない人々が誤って言うには、釈尊の説かれた教えの中にも、臨済宗・法眼宗・雲門集・潙仰宗・曹洞宗と言う宗派の区別があると言う。

これは人間がわざわざつくり出したものではないけれども、自然のうちに仏道が衰えていっている状態を示している。しかしながらこのような状態を救おうとする一人、半人の人というものが不幸にして当時ではまだ見当たらかった。 ところが今は亡き自分(道元禅師)の師匠である天童如浄禅師に至って初めてこの事態を何とかして救おうとされた。これは天童如浄禅師と言う人格の努力の賜物であり、釈尊の教えに十分に通達したことの賜物である。



          ―西島先生にある人が質問した―                                

質問
私はカトリック信者として、信仰という面で自分では忠実に従っていたし信仰にのっとった生き方をしてきましたけれども、仏教をお習いしてからこの二年間を振り返ってみますと、自分はある意味でずいぶん大人になったと感じます。それと同時に自分の中に直観を直観としてストレ-トに出せるという、そういった幼児性が発達したという面も感じます。この間テレビのニュ-スを見ていたら、いまのカトリックの法王がポ-ランドに帰ったと出ていましたが、ああいうのを見ていると「ああ、絵空事」という感じがしたんですね。

ああいう絵空事を私は何十年も本当に真実だと思ってずいぶん生きてきたけれども、今の私にとってはあれはすべて絵空事に過ぎなかったという事をつくづく実感して、私は仏教を習ってほんとに大人にさせていただいて、ほんとに落ち着いて日常の行動、生き方に焦点を合わせて生きていけるようになって、「ああ、神様」なんて、天上を見てとんでもない絵空事をしなくて済む、地に足がついた生活が出来るという喜びをまた新たに感じました。

先生
うん、そう。その点では、ロ-マ法王がポ-ランドを訪れたという事は大変面白い話でね。一昨日、私のところにいつもお昼前後に来るベリ-というアメリカ人がやっぱりその問題を取り上げて、「ロ-マ法王がポ-ランドに行った事件というのは中々面白い。ポ-ランドの政府が法王は政治に関与することを避けてほしいという事を言っている。ただロ-マ法王は政治に関連しないという外見を示しながら政治に関連しに行ったんだ。だから、ロ-マ法王がポ-ランドに行ったこと自体が非常に大きな政治的な意味を持っているのであって、ポ-ランドの政府が政治的に関与しないでほしいという希望を述べていることが中々面白い」という話をしていました。

まさにその通りであって、その点では、ああいう動きというのは宗教的な動きと言うよりは世俗の出来事です。先ほどちょっと神道の問題と関連して話しが出ましたけれども、そういう世俗の動きと仏教とは関係がないんです。だから道元禅師が「名利の心を離れろ」と言われたのは、名利の心を離れないと本当の宗教の世界というものは見えてこないんです。

仮に外見は宗教的な形をしていても、世俗的な名誉や利得のために動いている間は、仏教と無関係だという事がはっきり言えるわけですよね。そういう点で、仏教の持っている思想が単に世俗の動きを嫌うという事ではなしに、世俗の価値観に支えられた世界以外に本当の価値の世界がある、という事を主張しておられるという事が言えると思います。だから、そういう世界を狙っていかないと我々生きている甲斐がないと、そういう事が言えると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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