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正法眼蔵 説心説性 20

道元禅師の「説心説性」に関する注釈は続きます。

我々の日常生活において、煩わしさを完全に取り去った状態だけをひたすら期待していると考える必要は必ずしもない。洞山禅師の「自分はすっかり枯れ切ってしまったけれども、今度はにわかに生き返って生き生きとした境地に入った」という言葉は、人間に関連したところの精神を説き本性を説くと言う事がどういうものであるかを、洞山良价禅師の声や姿を通じて現実のものとして現れた状態である。

それと同時に、先ほどは一切の煩わしさから抜け出し状態であったけれども、その中でさらに具体的なほんの一部分の生き生きとした状態を得たという表現でもあろう。その生き生きとした状態が完全な形で一切のものが生き生きとしている事を意味するのであろけれども、死と言うものと生き生きとした状態というものとが二つ並んで、死と言うものが生き生きした状態に変化するという相対的な関係ではない。洞山禅師の境地は常に生き生きとした境地をしっかり把んでいて、最初も正しい、終わりも正しいという形で自由自在の境地におられたと言う事に他ならないであろう。

一般的に言うならば、釈尊の教えや達磨大師の教えにおいては、精神を説くとは何か、本質を説くとは何かと言う問題があって、この様に検討されて今日に至っているのである。我々の日常生活のあり方を考えてみるならば、一切の煩わしいものを超越した状態も具体的にあり得ると同時に、その中においてしかも生き生きとした活動を具体的に実現していくと言うのが我々の日常生活における実態である。




              ―西嶋先生の話―                         
    --つづき

ですから同じ仏道でも、例えば蓮如上人の様に奥さんに相当する人が何人もおって、また子供さんが何十人もあったというお話を聞きますと、我々もそれはたいした人物だ、我々もできればあやかってみたいという考え方もないわけではありませんが、それと同時にそういう生き方が本当に釈尊の教えであったのかどうかという点については、やはりいろいろと考えてみなければいけない問題を含んでおるんではないかと感ずるわけです。

これは丹羽廉芳禅師から直接伺った話ですが、丹羽禅師のお弟子さんで、もうすでにかなり年配になられた方が恐る恐る丹羽禅師のところに出向いて、「私もだいぶ年配になりましたから、結婚させていただいてよろしいでしょか」という申し出をしたところが、丹羽禅師が「いいよ、いいよ、結構だよ。だけど寺は出て行っておくれ」と、こういうふうに言われたそうです。ですから、非常に簡単なことではありますが、僧侶としての立場、あるいは仏教のものの考え方というものについては、かなりはっきりした線があるのではないかと、そういう事を感ずるわけです。

その点では涅槃という問題に関連いたしましても、「有余涅槃」という言葉と「無余涅槃」という言葉と二つあるわけです。「無余涅槃」というのは亡くなることを意味するわけです。しかし亡くなることだけが涅槃ではなしに、我々の生命のある時点において涅槃というものがあり得ると、こういう主張が仏教にはあります。「涅槃」という言葉は語源的に言いますと「火が消えた」という意味だそうです。

ですからその点では、プラス、マイナス、ゼロの状態になったという事ですが、そのような事態というものが我々が生きている事態の中にあり得るという事、これが釈尊が説かれた一つの主張あろうかと、こういう風に思うわけです。ですから、こういう問題をあまり露骨に申す上げますとたいへん味気ない話で、「そんなこと言われるんであれば、もう仏教の勉強はやめた」という事にもなりかねないわけですが、基本的にこういう問題も詰めておくことが、仏教という思想がどういう思想であるか釈尊がどういう事を説かれたのかという事と、かなり密接な関係があろうかと思うわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
夫と店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。    

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