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正法眼蔵 説心説性 17

道元禅師の「説心説性」に関する注釈は続きます。

精神(心)を説く本質を説くという事は、真実を得た人とは何かという事を説き、仏教界における諸先輩とは何かという事を説く事と少しも違わないから、耳でもそのような教えを聞くことができるであろうし、眼でもそのような教えを見ることができるであろう。

それに関連して神山僧密禅師は「それは言葉では説明する事の出来ない誰かである」という答えをした。この言葉が口に出せる以上、僧密禅師はどんな質問にも同じような返事をする事が出来たであろう。

「それは言葉では説明する事の出来ない誰かである」と言う言葉は、具体的な洞山禅師と僧密禅師との問答の場面だけではなく、どこの場面でも通用する精神についての説明であり本質についての説明である。その場面を表現する場合に、それは言葉で表わせない何らかの人格であると言う主張が出来るならば、まさにそれは精神を説き本性を説いている事態である。

この様な理解の仕方による「説心説性」というものは、
洞山禅師の系統以外の人々は承知していないところである。精神とか本質とかを説明するにあたっても、本当の自分と言うものを忘れてしまって、自分の精神であり自分の本質であるところのものを自分以外のものだと考えるから、今度は自分以外のものを認めて、それが自分の本質だと思うような間違いを起こすのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
言葉使いの点で本論とは少し外れると思うんですが、一般宗教界やキリスト教なんかではよく「奇跡」という言葉を使いますが、先生は「奇跡」という言葉を使わない代わりに、よく精神は汲み込んでおられて「可能性」という言葉を使っておられるように思うんですが、どうですか。

先生
私は「可能性」という言葉を「奇跡」と同じよな意味に使っている例はありません。私の「奇跡」という言葉に対する理解の仕方はどういう事かと言いますと、道元禅師のお立場でも「奇跡」というものを考えておられるわけですけれど、それはどういう事かというと、太陽が朝東から昇って、夕方西に沈むという風なことが奇跡だと、こういう事を道元禅師は主張しておられるわけです。

これは中国からお帰りになって、興聖寺を建てられたときの最初の説法で、「日は東より昇り、夜々西に沈む」それが奇跡の事だと、奇跡に類する事実だと、こういう事を言っておられるわけです。だから私も、ご飯を食べると、それがお腹の中に入って行って、いつの間にか血液に代わって体中を巡り巡るという風な事実そのものが実は不思議でしょうがない。

なぜそういう事実があり得るのか、いくら考えても「なぜ」という答えは出てこない。しかしそういう実に想像もできないような不思議な事態というものが我々の住んでいる世界には無数ある。我々の住んでいる世界は奇跡そのものでいっぱいになっておって、奇跡以外のものは何もないと言っていいほど、実に不思議な事実がたくさん含まれているという事が言えると思います。

だから宗教の世界で「奇跡」と呼ばれるような事というのは、本当の意味で奇跡なのかどうか疑問だというふうな見方を私はしているし、仏道はそういう見方をしているというふうに見ていいと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
夫婦で店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。     

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