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正法眼蔵 説心説性 15

道元禅師の「説心説性」に関する注釈は続きます。

本質が架空に不動の形であるのではなくて、それが常に動きとして何らかのものを発揮している事を信じて受け取る事が、まさに正統な後継者として真実を得た人々の姿に他ならないのである。心と本質とを別々に分けて、心は様々な状態で動揺しているけれども、本質は停止していて静かなものであり心と本質は別々のものであると主張するならば、その様な考え方は外道(釈尊が説かれた教えとは別の考え方)である。

また本質とは非常に澄み切った静かなものであるけれども、その外見は常に動いて変化しているものであるというふうに、性と相とを別々のものとして主張するならばこれも外道の考え方である。ところが釈尊の説かれた教えにおいて心とは何かという事を学び、本質とは何かという事を学ぶ場合には、その様な学び方ではない。外道の立場で心とは何か、本質とは何かという事をはっきりさせようとしても、それはできるものではない。

釈尊の説かれた教えにおいては、人間に関連して精神が説かれ、本質が説かれる場合もあるし、人間とは無関係に精神が説かれ、本質が説かれる場合もある。人間と関係した立場で精神が説かれない場合もあれば、本質が説かれない場合もある。また人間とは無関係な場面で、精神が説かれない場合もあるし本質が説かれない場合もある。精神を説く段階もあれば、精神が説かれない段階もあるし、本質が説かれている段階もあれば、まだ本質が説かれていない段階もある。「説心説性」に関連しても様々な場面がある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
度々おうかがいするんですけれども、坐禅をしておっての直観的なものを尊重すると言う事ですね。先生のご体験としてはどう言う事がございますか。

先生
我々は年がら年中決断で動いています。だけどその決断というのは頭で考えたって間に合わない。大抵は物事を頭で考えればいい智慧が出てくると思っているけれども、いくら考えても考えというのは堂々巡りするだけです。どうするかというのは、やっぱりその時の体の状態、心の状態が決めるわけです。

質問
ここに非常に不幸な人がありまして、それをどう慰めてやったらいいか救ってやったらいいか・・・。
  
先生
慰めはないね。自分で立ち上がるしかないんです。傍から「気の毒だ、気の毒だ」と言われたところで、幸福にはなりませんよ。だからそういう場合には、本人が「よし、これじゃいかん」と思って立ち直らなくてはやっぱりいいとこへ行かんですわな。

質問
来世を楽しみってわけにはいきませんか。
    
先生
ないな、それはないね。来世があると主張すればそれは罪深い話ですよね。でたらめですよ。それは人は喜ぶよ。非常に喜びますよ。「いやぁ、もう来世があるんだから、いま悲観しなくてもまあ大丈夫ですよ」と思って、力もつくかもしれないが本当かどうかと言う事になるとね。だから来世というよりも、今、心がけ次第で幸福になる事のつ方が大事だと思います。
 
質問
そしてまた、いま不幸なのは過去の報いであるというのは・・・。

先生
ええ、それはありますよ。今の不幸はあなた自身がつくったのだ、と言う事はありますよ。また両親の影響で今の不幸があるんだ、と言う事も否定できない。ただそうかと言って「俺はもうだめだ」と思っていたらいつまでも駄目なんです。どんなに不遇でも「よし、何とか頑張ろう」というところから人間の幸福は出てくるわけだ。だから「あなたはツイてないから、もう永遠に駄目ですよ」という必要はない。そんな事は絶対にない。どんに不幸な人でも、やることを変えれば、すぐに幸福になれるわけだ。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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