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正法眼蔵 説心説性 13

さらに道元禅師の「説心説性」に関する注釈は続きます。

自分達の宗派の祖師である洞山良价禅師ただ一人が沢山の祖師方の中における非常に尊い方として、説心説性――精神を説き本質を説くと言う事が本当はどの様な意味を持っているかと言う基本的な考え方に通達しておられた。しかしながらこの「説心説性」と言う言葉に関連して本当の意味が十分に分かっていない地方に住むたくさんの祖師方は、洞山禅師と僧密禅師との間で交わされた様な問答に関連した主張というものが見当たらない。

その問答の中では、洞山禅師と僧密禅師とが一緒に道を歩いておられた時に洞山禅師が傍らの寺院を指して「この寺院の中には人に該当するようなものがいて、精神とは何か本質とは何かという事をしきりに表示している」と言われた。この言葉は洞山禅師がこの世に出て以来、釈尊の孫弟子たるものはいずれも、洞山禅師以降の伝統として正しく伝承しているところのものである。

洞山禅師の系統に属していない人々は、夢にさえ見聞きした事のないところであり、まして夢にさえそれを十分に理解する方策を知っていたであろうか。この洞山禅師の主張は、その正当な後継者だけが正しく伝承して来たところである。この基本原則を正しく伝承していない場合には、どうしてこれらの人々が釈尊の説かれた真実の根本に通達していると言う事が言えよう。

ここで洞山禅師がどのようなことを主張されたかと言うならば、ある場合にはそのものの内側、ある場合にはそのものの表面と現れる場面は様々であるし、人の現れ方にも客観的な場合、主体的な場合と両様があるし、そのような様々な形で精神(心)が説かれ本質が説かれ、精神が発揮され、本質が発揮されているのである。ある場合には表面において、ある場合には内側において、あるいは表面と内側と両方において精神ががどのようなものかという事がが現実に現れている場合があり、また物事の表面においても内側においても本質が発揮されている事態があると主張されているのである。

単に「説心説性」と言う言葉を、精神を言葉で説明する、本質を言葉で説明すると言う意味だけで理解していないのである。この様な洞山良价禅師の主張を十分に勉強してみる必要がある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
本音と建前を使い分ける、というのは昔は少なかったんですか。

先生
戦前もそういう考え方はあったけれども、そういう考え方は恥ずかしいと言う気持ちがあったんです。人間が本音と建前を使い分けて生きなければならない様な面もあるけれども、それは本来の形ではない。そうせざるを得ないけれども、それは恥ずかしい事だと言う気持ちがあった。
   
しかし戦後は、その本音と建前を使い分ける事が当然の人間のあり方だと言う事で、真正面から本音と建前の違いを認めようとする考え方、あるいは認めるべきだという考え方が私はどうも強すぎるんじゃないかと言う見方です。そういう考え方をしますと社会に倫理道徳が成り立たないんです。もう一切がご都合主義で、腹で考えている事と外側のやる事とが違っていて当たり前だと言う事になりますと、人間社会そのものが途轍もなく暗く、途轍もなくおかしな状況になるんです。そんな事は仏道の世界では許されない。

質問
私の場合は本音と建前があるのが当たり前で、そうしないと生きていけない。それ以外があり得るかと言うのが正直な気持ちです。

先生
だからその点はね、戦後の特殊状況だと思います。そういう考え方が当然として、人々の頭に固定していると言う事は。
                                 
質問
先生のお話を聞きに来る外国人というか西欧の人は、本音と建前を使い分けるというのはあまりないんですか。

先生
ここへ来る様な人は必ず、本音と建前を二つに分かれておってはいけないと言う考え方を強烈に持っています。またそれでなければ仏道を勉強しようなんて気持ちは起きないんです。なぜ仏道を勉強しようと言う気が起きるかと言うと、自分の頭の中にある理想と現実とを一つに結びつけたいと言う努力ですよ。だから理想は理想、事実は事実と二つがバラバラで仕方がないんだと言うふうに考えていれば、仏道を勉強しようと言う気持ちそのものが起きてこないと言うのが実情だと思います。
    
菩提心(本当の事を知りたい)を起こすと言う事の意味は、理想と現実とをどうやって結びつけるかと言う事について、その努力をやってみたいと言う気持ちだというふうに見ていいと思います。それで仏道と言うのは、建前もなくなる、本音もなくなると言うのが仏の世界です。建前と本音を二つ頭において使い分けているうちは仏の世界は出てこない。建前もなくなる、本音もなくなるところに自由自在に生きて、しかも世間に迷惑をかけない生き方があるんです。

※私の独り言。
前文科事務次官の前川喜平氏の座右の銘は「面従腹背」。そういう人が文教行政のトップにいて日本の教育を指導していたなんてビックリです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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