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正法眼蔵 三界唯心 6

この様な理由から釈尊は「法華経譬喩品」の中で言われた。 

いま現に我々が住んでいるところのこの欲界・色界・無色界の三種類の世界は、すべて自分の持ち物(自分と同じ性質を具えた世界)である。そしてその中に生きている人間はすべて自分の子供である。

釈尊の言葉について道元禅師が注釈されます。
今ここに言う三つの世界(欲界・色界・無色界)は、釈尊自身の持ち物であるから、全宇宙と三つの世界とは全く同じ世界である。三つの世界(欲界・色界・無色界)は全宇宙と同じであるから、我々が現にいる世界は、過去・現在・未来と言う時間の中における世界である。

時間を考える場合に過去・現在・未来と言う三種類の捉え方をする場合もあれば、現在のこの場所における瞬間と言う捉え方をする場合もあって、この二つの考え方がお互いに邪魔しあうと言う事はないのである。しかしながら、我々がきわめて現実的に問題を考え、今この場所においてどうしなければならないかと言うふうな実践的な問題として我々のあり方を考えて見るならば、過去・現在・未来と言う頭の中で考えられた気の長い時間の考え方はどこかに飛んでいってしまう。

釈尊がこの三界はすべて自分の持ち物(自分と同じ性質のもの)と言われたけれども、その様な状況においては、あらゆる方角に広がっている宇宙全体というものが人間の体と全く同じ様な実体として現れて来るのである。また我々人間と同じ性質を持った世界であると言わざるを得ないのであり、長沙景岑禅師が言われた「あらゆる方角に広がっているところのこの宇宙全体が自分の眼の玉で見える限りの世界である」という主張とつながっていくのである。

三界の中に生きている様々な生きものも全宇宙の中における本当の実体であるし、その様な生きとし生けるものは一つ一つが個々に生きものとして生きているのである。一つ一つの生きものものの数が極めて多いところから衆生と呼ばれるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は「正法眼蔵」をまだあまり読んでいないわけですけど、先生の講義をここしばらく聞いてると、みんな同じ事ばかり言っているような気がするんです。
   
先生
同じ事です、ねらいは同じ事です。
   
質問
形を変えて言っていると・・・。

先生
ええ。という事は、坐禅と言うものが同じ事でしかない。「法華経」の説明で「一相一種」という言葉、一つの姿であり一つの種類のものを与えたと言われているところからも、私は坐禅の事を言っているという理解の仕方をするのはその事なんです。つまり、世の中は無限に複雑なわけですよ。

無限に複雑なものを解くカギを坐禅と言う形で与えていただいたと、こう言う事になるわけです。だから仏道の信仰というのは坐禅に対する信仰だと見て間違いないと思います。それ以外に仏教哲学は理解できないと私は思う。

質問
わかったと言う事は、自分が何か体験してると大抵は今頃でわかったという事になるんですけど、そういう体験がないから、わかったというのがどう言う事なのかと言う事がわからないんですよね。

先生
わかったと言うふうな事ではなくて、「わからなくてもいい」と腹を決める状況だと言ってもいいんですよ。そんな理屈はもう儚い事だから、どっか遠くの方に忘れてしまって、毎日朝晩坐禅をやっていたら何も問題がおきて来ないというのが仏道ですよ。だから「わかる必要もないな」と実感する事だと、そういうふうに見ていい。だからそういう点では、明治維新以降の学問の立場からの考え方と違うわけですわけよ。

ただ今日われわれが何で悩んでいるかと言うと、頭が良すぎる事で悩んでいるんですよ。そうすると、尖がっている頭をすこし削り取って丸くするためにはどうするかと言うのが仏道修行だと、こういうふうに見てもいい。頭が鋭すぎて、その鋭さが自分に突き刺さってどうにもならないという実情が、今日われわれの持っている文明かもしれない。

だからそういう点では、頭は頭なりにそれなりの役目を果たさせるためにはどうするかと言うたふうな事が仏教思想の基本にあると、そういうふうに見ていいと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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