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正法眼蔵 三界唯心 5

釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

三界において三界を見るという態度は、欲界・色界・無色界が現実に姿を現してきている状態であり、欲界・色界・無色界と言う三種類の世界が現に具体的に目の前にあると言う事である。それは見成公案なり(現に目の前に展開されている法の世界そのものである)

※西嶋先生解説
公案というのは、「公附の案牘」という言葉が略された言葉だと言われております。「公附の案牘」というのは役所の法律を示すお触れ書きをいうわけであります。したがってこの「公附の案牘」というのは役所が法律を新しく作った時に、それを民衆に示すために書きつける板を言うわけでありますが、この「公附の案牘」という言葉がさらに省略されて、「公案」という言葉が出来た、したがって「公案」という言葉は法とか法律とかというものを意味しておるわけでありますが、それが今度は仏教の中心的な言葉である法という言葉を示すようになってきた。

本文に戻ります。
この様な欲界・色界・無色界と言う三種類の世界に住んでいながら、しかもその欲界・色界・無色界の世界が我々の住んでいる唯一の世界であるから、我々はその中において、発心(本当のことを知りたい)と言う気持を起こして、修行(釈尊の教えに従って実践を行って)、菩提(実践の結果、真実に到達して)、涅槃(真実に到達した結果、非常に安らかな境地に入る)、という事を実際にやるのである。

この様に、我々が三界(欲界・色界・無色界)の中で一所懸命に仏道修行をして、真実に到達すると言う努力があればこそ、釈尊は三界(欲界・色界・無色界)というものが、すべて自分の持ち物だと言われたのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は人間が一所懸命やる行動すべてが仏道修行だといいますが、行いにも善悪があると思いますが、悪事に没頭する、たとえば泥棒三昧なんていうのは・・・。
 
先生
その点では、仏道の世界は善悪を乗り越えた世界です。善悪にこだわっている時には、坐禅の境地と言うのは無いんですよ。普通は善と悪があって、悪を離れて善につけというのが普通の宗教の教えです。仏教にはそれは間違いだと言う主張があるわけですね。善だ悪だとこだわっているうちはいい事は出来ない。

善悪を乗り越えた世界で、一所懸命にやるのが真実の世界だと言う事でもある。これが仏教思想、
非常に特徴のある思想です。日常生活の経験からすると本当なんですよ。つまり夢中にやっている時に本当の生活があり、本当の人生があるというのが実情です。そうすると善いか悪いかと頭の中で考えている状態、つまり余裕のある状態、切実でない状態は、真実の世界ではないと言う考え方が仏教にはある。

西洋思想の場合は善と悪とに分けて、善がどう悪がどうと言う事で何千年も思想が発達してきたわけです。仏教思想のような形で「善悪を乗り越えるという中に本当の意味の実際生活がある」と考えざるを得ない面があります。 


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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