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正法眼蔵 葛藤 15

趙州従諗禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。

そこで摩訶迦葉尊者と弟子の阿難陀尊者との間で法(宇宙秩序)が伝えられた時の問題を、自分自身がその境地に入って摩訶迦葉尊者と阿難尊者との法の伝授における実体を観察してみるに、阿難尊者の体が摩訶迦葉尊者の体の中にすっかり入り込んでしまっているのであり、摩訶迦葉尊者の体は阿難尊者の体の中ににすっかり入り込んでしまっているのである。

この事は摩訶迦葉尊者の体の実態と阿難陀尊者の体の実態とは全く違いのないような状態になって、摩訶迦葉尊者から阿難陀尊者の体に法が伝えられたのである。しかしながら摩訶迦葉尊者と阿難陀尊者とがお互いに法を伝え、また法を受けると言う形でお互いが見合ったその時点においては、摩訶迦葉尊者は摩訶迦葉尊者としての態度を示し、阿難陀尊者は阿難陀尊者としての態度を示したのである。

そこで趙州従諗禅師は「では聞くが達磨大師は誰に法を伝授したのか述べてみよ」と説示されたのである。達磨大師がこの様な法を弟子に伝えた場合に初めて達磨大師は本来の自分自身に立ち返っているのであるし、太祖慧可大師が達磨大師から法を伝えられたその時点においては、太祖慧可大師ご自身が達磨大師と同じ人格になり得ていたと言う事が出来る

この様に師匠と弟子との間で一対一の人格として釈尊の教えが伝えられて来たからこそ、釈尊の教えが二千数百年を経た今日においてもまさに釈尊の教えそのものとして現に我々の周辺にある。もしこの様に釈尊の教えが人格と人格との間で伝えられたものではなければ、釈尊の教えは今日に伝わってきた事にはならない。この様な基本的な原則を静かに考えて勉強してみる必要がある。そして自分がこういう理論について言えるようになるばかりではなく、人に対しても言わせる事が出来るようにならなければならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
法を伝えることがいかに難しいか、言葉では伝えられないし、じゃ、具体的にどういうふうな方法で法を伝えるんですか。

先生
これはね、法を伝えることが難しいという事を言っておられるんではないんです。つまり法と言うものが何かと言う事がわかってきますと、言葉で説明する必要がないという事がわかるわけです。で、そのことが法というものの実体だという事を説かれているわけです。

ですからまあ、別の言葉で言うならば坐禅をしている時に感じられるものが法であって、坐禅の時に感じられるものは言葉では説明できない。非常に複雑な何かを感じとるに過ぎないと、こういうことを述べておられるというふうに見ていいわけです。ですから決して難しいと言っておられるわけではない。それと同時にはたから眺めて常識的に言葉で理解するべきものではないと、こういう主張をしておられるわけです。

質問
師匠と弟子が一緒に坐禅して得られるという事ですか。

先生
そういう事です。基本的にはそういう事です。

質問
それには長い期間が要るんじゃないんですか。

先生
坐禅というものは始めたらすぐ仏になるんです。普通は何十年もかかってやっと仏になると考えていますけれども、道元禅師の思想はそうではない。「初心の弁道すなはち本証の全体なり」と言われているのは、どんな初心者でも初めてやった坐禅がすでに仏になった状態そのものだと、これが道元禅師の坐禅に関する基本的な考え方です。で、これがまた非常に大切な仏教思想の基本になるわけです。

質問
その坐禅をやめればもう駄目ですね。
    
先生
ですから、朝坐禅をやっても坐禅の影響というものはずうっと続く。だからその影響が切れないうちにまた坐禅をやるという事は、これは大切な事です。坐禅をやっても十日も二十日も間を空けると元の木阿弥になるという事、これは事実です。だから私が坐禅は毎日朝晩やれと言うのは、その事と関係している訳です。坐禅というものはあまり間隔をあけなければ仏の状態はずっと続くと確信していい。

だからその点では、坐禅の修行というのは間を空けるべきではないと言うのが私の実際の経験からでた実感です。かつて若い頃には、私は毎日坐禅をやっていたわけではない。ある時期には一所懸命やった時期ももちろんあったけれども、それが終わると「やれやれ」という事で坐禅をやらなかった時代と言うのは割合長かった。そういう時代には仏道というのは結局分からなかった。   

ところが機械的に毎日朝晩やるようになると、そういう状態そのものが仏道だと言う事に気がついたと言う事がある。だからそういう毎日朝晩坐禅をやる事によって感じ取れる何かを「葛藤」と言われている訳です。そういう葛藤と言うものが坐禅をやった師匠から坐禅をやった弟子に伝えられる、これが法(宇宙秩序)の伝承だと、こういうことが道元禅師の主張の中心になるわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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