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正法眼蔵 葛藤 14

趙州従諗禅師と僧との問答について道元禅師が注釈されます。

この様な趙州従諗禅師と僧との問答から我々が知り得るところは、皮でさえ手探りで見つけても得る事が出来ない場合には、髄もやはり手探りで見つけても得る事が出来ないのである。「皮を得た」と達磨大師から評価を与えられた場合には、達磨大師の髄を得たという事と少しも変わらないのである。そこで趙州従諗禅師がその僧に対して「その様な質問をするようでは、お前は皮でさえ手探りで見つけても得る事が出来ないであろう」と言われた基本的な原則というものをよく考えて見る必要がある。

そして僧の「我々が聞いている太祖慧可大師が達磨大師の髄を得たられたという境地が真実を得た境地に当たるのではないでしょうか」と言う質問に対して趙州従諗禅師が「皮とは何であるかを知る事に努力せよ」さらに「自分の立場からするならば、現にこの場面において髄とは何かと言う事さえ必要でない境地にすでに到達している」いう言葉が現実のものとして趙州従諗禅師の口から述べられた。

趙州従諗禅師のように、一般にはごく表面的なものと考えられている皮とは何かという事を十分に承知するならば、現にこの場面において髄とは何かと言う究極の境地でさえ論議する必要がない状態が、本当の意味で達磨大師の髄を得た境地だという事が基本的な原則だと言われているのである。このようなところから、「太祖慧可大師が髄を得たと伺っておりますが、 それこそは達磨大師から法を伝えられたと考えてよいのではないでしょうか」と言う質問が僧の側から出されたのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
   --つづき

道元禅師が臨済禅師、徳山禅師、大潟禅師、雲門禅師と言う方々の立場に多少の批判を持っておられた事の基本的な問題は、坐禅を悟りを得るための手段としたからであります。今日仏教思想を理解しようとするならば、どうしても道元禅師の思想「正法眼蔵」の思想でしか理解できないと言う事がはっきりあると思います。
    
こう言う事が今日なぜハッキリして来たかと言うと、これは西洋思想のおかげです。西洋的な考え方で非常に厳密な言葉を使って宗教とは何か、キリスト教とはどういう考え方か、マルクス主義とはどういう考え方か、仏教とはどういう考え方かと言う事を理論的に詰めて行きますと、坐禅に関連してはどうしても道元禅師と同じ様な解釈にならざるを得ないという問題があるわけです。

だから坐禅をすれば直ぐ仏になると言う考え方は、決して道元禅師の主張だけではなくて、釈尊も、摩訶迦葉尊者も、阿難尊者も、達磨大師も、太祖慧迦大師も、天童如浄禅師も、道元禅師も、仏道を本当の意味で理解された方はすべて「坐禅をする事が即、仏になる事」と言う主張にならざるを得ないという問題があると思います。

これはまあ私が言うと「いや、西嶋は勝手な我田引水の事を言っている」と取られるかもしれないけれども、「正法眼蔵」を読んでいくと、どうしてもこういう結論にならざるを得ない。そして「正法眼蔵」の主張がなるほど仏教思想そのものだと、こういう理解にならざるを得ない。こういう問題があるわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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