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正法眼蔵 葛藤 12

達磨大師と弟子の問答について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊以来代々の祖師方によって受け継がれて来たところの葛藤(複雑なもつれあい)と言うものは、体や心と言うふうな差別を乗り越えた、皮、肉、骨、髄という実体そのものの一番中心の大切なものを言うのである。

この様に考えてくると、釈尊と摩訶伽葉尊者の間で釈尊が優曇華の花を手に持ちながら瞬きをして仏道の真髄というものを暗示し、それに対して摩訶伽葉尊者がにっこりと微笑まれたと言う物語もやはり複雑なもつれ合いそのものであり、また体と心と言う区別を超越した皮・肉・骨髄そのものを意味するのである。この様な実情と言うものをさらに勉強してみる必要がある。

このように葛藤(複雑なbもつれ合い)と言う出発点が、まさに様々な付属的なものを全部払いのけるだけの力を具えているから、複雑なもつれ合いを巻きつけているところの枝や葉や花や果実というものが現に我々の周囲に存在して、それがある場合には複雑であり、ある場合にはその複雑さを乗り越えた状態を示しているけれども、その様な状態があればこそ、真実を得られた方々はこの世に具体的に存在する事となるのである。

またこの世の中を規律している法というもの――現実の宇宙の秩序というものが実在すると言う事が、現に眼の前にあるのである。

※西嶋先生解説
こういう形で、道元禅師は仏道の究極というものは単純な理論で割り切れる様なものではなくて、我々の実体に即した非常に複雑な表現することの出来ない何かであり、それを「葛藤」と言う言葉で表現されて、その葛藤が我々の求めている仏道の究極のものであると言う事を主張されている訳です。

この様な捉え方と言うものは普通に仏教を勉強する場合には中々行き着かないところで、我々は一所懸命、仏教と言うのはそのうちわかるだろうと言う事で、スッキリした理論として追い求める訳でありますが、道元禅師が究極のものとして説かれたのは、もちろん仏教理論というものはあり、仏教の思想体系もあるけれども、究極の現実というものは単に理論ではないもっと複雑なものでありあり「葛藤」と言う言葉で表現されるところのものであると、こういうふうに言われているわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先ほど、坐禅をすると即、仏になるとおっしゃいましたけど、これは道元禅師の考えですか、それともお釈迦様の考えなんですか。

先生
これは釈尊以来の基本的な仏教の思想です。で、道元禅師がその事を強く言われたのは、道元禅師は自分が特別な仏教を編み出したと言うお考えでは決してないわけです。道元禅師が長年の仏道修行から、釈尊の思想そのものが坐禅をやればすぐ仏になると言う思想以外には考えられないと、こう言う思想が「正法眼蔵」の中にははっきりあると思います。

道元禅師は「学道用心集」の中で、釈尊の教えと代々の祖師方の思想との関係で、「絲毫を添えず、一塵を破ること莫し」と言う表現をしておられる。ほんの僅かなものも付け加えたり、それを切り取ったりしたと言う事はやっていない。したがって自分の教えは、釈尊の教えそのものだと言う事を主張しておられる。

今日、仏教思想とはどういう思想かと言う事を検討していった場合でも、坐禅を始めた瞬間から仏になると言う事を理解する事によって初めて仏教と言う思想の特徴が出てくるわけです。それはどう言う事かと言うと、今日の西洋思想の行き詰まりは、ものを考える人間の働きとものを感ずる人間の働きとを二つに分裂しておる。で、どっちが正しいかと言う事で争っているのが実情であります。キリスト教トマルクス主義の対立という事で西洋文明の非常に大きな特徴というものが表されておるわけであります。

                             つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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