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正法眼蔵 葛藤 10

達磨大師と弟子の問答について道元禅師の注釈は続きます。

この様に沢山の方々が達磨大師と同じ様な人格を得て、ともに現実にこの世の中におられる場合には、このような百人、千人の弟子に対して達磨大師が評価を与えられるに当たって、そのいずれの方々に対しても先に達磨大師が述べられたのと同じように、「お前は私の皮を得た」と一様に言われても決しておかしくはないのである。

百人、千人の弟子に対する達磨大師の表現が、仮に皮、肉、骨、髄と言う四つの言葉に限られていたとしても、傍で眺めている第三者としてはただただ皮、肉、骨、髄と言う言葉によって達磨大師が弟子に評価を与えられたと具体的に理解すべきである。

仮に達磨大師の教団において四人の弟子だけではなくなくて六人、七人の弟子がいるのであれば、お前は私の心を得たという表現もあれば、お前は私の肉体を得たという表現もあり、お前は私の仏としての実体を得たという表現もあれば、お前は私の眼の玉を得たという表現もあり、お前は私の体験をそのままを得たと言う評価もあって然るべきであろう。

ここで言う「お前」とは達磨大師を指す場合もあれば、その弟子である慧可大師を指す場合もある。つまり「お前」と言う言葉も主体が入れ替わる事によって誰でも「お前」であり得ると言えるし、また「得る」と言う基本的な考え方を詳細に勉強してみる必要がある。


  
              ―西嶋先生の話―             

「瞑想」という言葉についてちょっとお話をしておきたいと思います。なぜお話しするかと言いますと、この瞑想という言葉が坐禅と同じ様な意味に使われている場合があるからです。たとえば、東京大学のインド哲学の先生を長くやっておられまして、今日でも東京大学の名誉教授になっておられる玉城康四郎さんという方が、春秋社の道元禅師に関する講座の中で「道元の瞑想的世界」という文章を書いておられるわけです。

この瞑想という言葉がその文章の内容から推察しますと、どうも坐禅の事を意味しておられるという問題があるわけです。なぜこういう結果が出てくるかと言いますと、実は西洋では坐禅の事をMeditationと呼ぶ習慣があるわけです。たとえば世界的に有名な仏教学者でエドワ-ドコンズという人がいるわけです。この人が「Buddhist Meditation」という本を書いているわけですが、この本で何を書いているかというと、坐禅の事を書いているわけです。

ですから西洋の世界ではMeditationという言葉が直ぐ坐禅を意味するという事情があるわけです。ただ坐禅というものを考えていった場合に、このMeditationという言葉の訳語の瞑想という言葉を使う事が多少坐禅の内容を誤解することに繋がるのではないかという心配を私は持っているわけです。なぜそういう心配をするかといいますと、「瞑」とは、「目をつぶる」というのが最初の意味です。

「はっきりしない」とか、あるいは「神秘的である」というふうな意味を持っているわけです。それから「想」はものを考えるという意味です。ですから瞑想というのはどうしても、何か神秘的なものを考えるという意味にとられがちです。また事実西洋の宗教、例えばキリスト教の中にも宗教的な一つの行事として、Meditationという事がある様で、そういうキリスト教の中におけるMeditationという修行法と坐禅とが何らかの形で関係があるように受け取られる心配があるというふうに感ずるわけです。
                               つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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