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正法眼蔵 葛藤 7

達磨大師と弟子の問答について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。達磨大師がある場合には皮、ある場合には肉、ある場合には骨、ある場合には髄と言われた言葉というものは、弟子の回答が浅いとか深いとかという事とは関係ないのである。仮に四人の弟子の見方について優れているとか劣っているとかという区別があったとしても、達磨大師の言われた言葉の中心は「自分の教えというものをお前達は得た」と言うのが中心的な意味である。

その思想の基本的な考え方を説明するならば、達磨大師が「吾ガ髄ヲ得タリ」「吾ガ骨ヲ得タリ」と言われた言葉の意味は、いずれも人のために法(釈尊の説かれた宇宙秩序)を説き、あるいは人と接触する場合、並びに様々の事物を取り上げ、また様々の事物から離れていくという日常生活の実態の中で、十分足り過ぎているとか、不足していると言う事態のないことが「吾ガ髄ヲ得タ」「吾ガ骨ヲ得タ」という言葉の意味である。

たとえばそれは釈尊と摩訶迦葉尊者との間で、釈尊が優曇華の華を手に持ちながら仏道の真髄を摩訶迦葉尊者に伝えてたのと同じ様な事情であり、また大満弘忍禅師と大鑑慧能禅師との間で夜中にお袈裟が法を伝える一つの象徴として密かに伝承されたという事態と同じである。つまり師匠と弟子との間で法が伝えられる事に関連しては「吾ガ髄ヲ得タリ」と言う言葉も「吾ガ骨ヲ得タリ」と言う言葉も決して差異はないのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
だから坐禅をしますと「頭を冷やす」と言う端的な表現がよくわかりますよね。だから「白黒はっきり」なんていう気持ちがなくなってしまうし、気持もリラックスしてくるから、狭い一方的な見方と言うものから解放されると言う具体的な体験もありますし、そんなに難しいことではないような感じがするんです、いまは。

先生
ええ、そういう事ですよ。だから私は、空気の入ったゴムボ-ルが水の上に浮かんでいるようなもんだというふうな実感を持つ事があります。つまりふわっとボ-ルが浮いているだけの事で、それをどういじる必要もないんで、ボ-ルをそのままそっと浮かしておけば、それが我々の人生であり、非常に平和で何の波乱もない人生があり得るんだと、そういう事を坐禅と言う単純な修行で実感すると言う事が仏道修行であると見る事が出来ると思います。

だから決して難しい事ではないと、こういう事が言える訳です。ですから、中国の三代目の仏教教団の指導者、鑑智僧璨大師と言う方が「信心銘」と言う本の中で、至道無難(道ニ至ル難キコト無シ)唯嫌揀択(唯揀択ヲ嫌ウ)と、その本の一番最初に書いておられます。揀択と言うのは選択と言う事、好き嫌いと言う事。だから真実に到達する事は難しくない、好き嫌いさえ無くなれば真実はすぐ出て来ると、こういう事をいっておられる。非常に短い簡単な言葉でありますけれども、我々の人生の真実を言い得ていると感じるわけです。

たいていの悩みというのは我々の好き嫌いから生まれて来る。「あ、あの人とまた会いそうだから横道にそれよう」と言うような苦心ばかりしていると、苦しくてしょうがない。誰が来ても「こんにちは」と言えるようになると、この世の中は非常に楽しくなるとそういう事でもあろうかと思うわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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