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正法眼蔵 葛藤 3

道元禅師の注釈は続きます。

一般的に言って真実を得られた沢山の方々がいずれも、葛藤(複雑なもつれあい)というものの根源を断ち切って、この様な葛藤を一掃すると言う様な仏道の勉強の仕方に対しては一所懸命努力をしているけれども、実際問題としては葛藤を使って葛藤を断ち切る事が実際の断ち切る事の意味だと言う事を学せず、葛藤で葛藤をまとめて葛藤が障害にならない様にすると言う実情を知らず、葛藤を使って葛藤である何かを弟子に対して伝えると言う事を誰が知っていたであろうか。

仏道において師匠から弟子へと法が伝えられると言う事は、まさに葛藤そのものであると言う事を知っている人は非常に小数であり、それを教えとして聞いた人も見当たらないし、その事をはっきり主張された方はいまだかつておられたためしがない。ましてそれを自分の体験として実際に体験された人がどうして多いはずがあろうか。

※西嶋先生解説  
まずこのように、仏道において師匠から弟子へ、師匠から弟子
へと伝えられるものは、葛藤(複雑なもつれ合い)そのものであると言う事を主張されておるわけであります。葛藤とは何を意味するかというと、言葉では表現出来ない現実そのもの、体験そのものが師匠から弟子へと伝えられるのであると、こう言う事を言われているわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先週、講義の冒頭のお話で、現在日本で行われている仏教を大きく分けますと、坐禅を行ずる仏教と坐禅を行じない仏教とに分けられるというお話があったんですが、これは端的に宗派名で表現いたしますと坐禅を行ずる仏教というものは、曹洞宗とか臨済宗とか、黄檗宗とかであって、その他の宗派は坐禅を行じていない仏教であると言う事になるんですか。

先生
いや、私はそういうふうな意味で言っていません。つまり坐禅をやると称している宗派でも、坐禅をやらなければ仏道ではないと、こういう主張です。だから坐禅をやらないと主張している宗派でも、坐禅をやれば仏道です。だからあの宗派がどうこうで、この宗派がどうこうでと言うような事を言っているわけではない。坐禅のあるところのみに仏道はあると。

質問
そうしますとたとえば浄土宗とか浄土真宗とか、日蓮宗とか、日本には十三宗五十六派と言われるぐらい多くの宗派があるわけですが、その中には坐禅を行じない教えが沢山ございますね。そうするとそれは本当の仏教ではないと言う事ですか。

先生
私はそういう問題については、私自身経験していない訳です、そういう宗派の主張する事を。だから私自身としては何とも言えない。「だ」とも言えない、「でない」とも言えない。もうこれは人様の事だから、私が口はばったくどうこうと言う事は言える筋合いのものではないと言う事と同時に、私自身は坐禅と言うものを勉強して、「正法眼蔵」を読む事によって仏道とは何かと言う事を承知した。

私の実感からするならば、坐禅の体験のないところで果たして仏道の体験があり得るかと言う点に疑問を持っていると、その程度です。だから人様のやっている事に対して、あれは仏道だとか、仏道でないとかという事まで言おうと言う気持ちはないと、こう言う事になるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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