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正法眼蔵 葛藤 2

「葛藤」の巻、本文に入ります。

釈尊が説かれた正法眼蔵無上菩提(正しい宇宙秩序の眼目の所在、最高の真実)を体験によって伝承された事例と言うものは、釈尊が説法されたと伝えられている霊鷲山における教団に関しては、釈尊の直接の後継者である摩訶迦葉尊者だけが正法眼蔵無上菩提というものを伝承された。

そして摩訶迦葉尊者から代々の祖師方によって正しくその体験が伝えられて、摩訶迦葉尊者から数えて第二十八代目の仏教教団の指導者である菩提達磨尊者にその教えが到達した。達磨尊者は直接ご自身で中国に渡られて、仏教教団の指導者としての行動を姿によって表現され、正法眼蔵無上菩提を大祖慧可大師に付託され、大祖慧可大師を中国における第二代目の教団指導者とされた。

すなわち摩訶迦葉尊者から数えて第二十八代目の指導者が初めて中国において教団指導者としての儀式を行われた事により、その菩提達磨大師を中国における初代の教団指導者といい、摩訶迦葉尊者から数えて第二十九代目に当たる大祖慧可大師を中国における第二代目の教団指導者と言うのである。そしてそれこそが中国におけるやり方である。中国の初代の教団指導者である菩提達磨大師はかつてインドにおられた時に般若多羅尊者のもとで修行をされ釈尊の説かれた教えや実践に伴う様々な実体というものを直接に体験されてそれを伝承された。仏教の根本である坐禅を体験してこられた方であり、この根本が他の枝葉に相当する様々な伝承の基本となったのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき

私がこう言う事を申しますと、「また例によって自分の田んぼにばかり水を引いてる、仏教は決して坐禅をやる事だけが仏教ではない」と、こういう考え方も勿論あるわけでありますが、仮に坐禅をやらないところにも仏教があるとするならば、二種類の仏教がある事になる。

つまり坐禅をやる仏教も仏教だし、坐禅をやらない仏教も仏教だと言う考え方も出て来るわけであります。ただこの点について沢木老師はよく「大蔵経の経典のすべてが坐禅の体験を文字によって表したものだ、従って坐禅の体験というものを言葉で書こうとすると、途轍もなく膨大な経典になってしまうんだ」と、こういう話をしておられたわけでありますが、私もどうも釈尊の教えそのものは坐禅の体験を中心にした思想であって、その点では坐禅のないところに果たして仏教があり得るかどうかと、こういうふうに感ずるわけであります。

そういう点では、私はこう思うというだけで、坐禅をやらない仏教があり得るかどうかの結論にはならない訳ですが、私はどうも坐禅のあるところにだけ仏教があって、坐禅のないところには仏教はないんだという考え方を、自分の体験からするとどうも持たざるを得ないと、こういう問題があろうかと思う訳であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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