正法眼蔵 葛藤 1
「葛藤」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。
葛藤とは何かという問題から考えてまいりますと、葛藤の「葛」という字はクズ、「藤」と言う字はフジという字であります。そして葛という植物も藤という植物も、自分の力だけでは立っている事の出来ない植物であります。したがって葛や藤は枝から蔓がでていて、その枝の蔓がそばの木に絡みつく力を持っているわけであります。そしてクズもフジも他所の木に寄りかかって植物として生きているといえるわけであります。
「葛藤」と言う言葉は、そういうクズの枝やフジの枝の状態から考えて、よそに絡みつくもの、あるいはお互いに絡みつき合って、もつれにもつれてどうにもならないものを「葛藤」と言うわけであります。
仏教でこの「葛藤」と言う言葉を使う場合には、普通は文字によって表された理論と言うものを表現する場合がわりあい多いわけであります。そういう文字で現された理論というものを一ぺんに断ち切る事によって本当の仏教に対する考え方が生まれてくると、こういうところから、葛藤と言うものは切り捨てるべきものだと言う理解の仕方が仏教における考え方であります。
ところが道元禅師はこの「葛藤」の巻においてどう言う事を説かれたかと言いますと、仏教の中心になるものは「葛藤」と呼ばれるような非常に複雑なものであると言う主張をしておられるわけです。我々は普通、師匠から弟子へ伝えられる「法」と言うものは非常に明快な言葉で表されたものであろうと想像しているわけでありますが、道元禅師は師匠から弟子に受け継がれていくものは、非常にもつれ合った、複雑な、単純な理論では説明する事の出来ない何かだと、こう言う主張をこの「葛藤」の巻で述べておられるわけであります。
このように仏教の中心思想が非常に複雑な、非常に沢山の要素が絡み合った単純なものではないと言う主張は、かなり貴重な思想だと言えようかと思うわけであります。実際問題として、師匠から弟子に与えられていくものは、かなり複雑な、実体的なものだ、現実的なものだと、そう言う事がこの「葛藤」の巻の趣旨から汲み取れるわけであります。
―西嶋先生の話―
今日、仏教というものを様々な観点から分けた場合に、色々な分け方があり得ると思うわけですが、一つの分け方として、「坐禅をやる仏教」と「坐禅をやらない仏教」と、こういう分け方があろうかと思うわけであります。私が仏教というものを考えていく場合に、仏教と言う思想は坐禅をやった時の体験と言うものを基礎にして生まれてきた思想だと、そういうふうに考えざるを得ないと感じるわけです。
ところが仏教に関連した本、また坐禅に関連した本を読んでさえ、著者が坐禅をしていないのではないかと言う記述に何回もぶつかるわけです。したがって、仮に坐禅に関連した本であっても、坐禅をした事のない方が坐禅の説明を書いておられると、坐禅によって得られる体験とまったく別の説明が行われている。これは不思議な事でありますが、事実そういう事があるわけであります。
最近も道元禅師に関する講座がある出版社から出ているわけですが、その講座の内容を読んでみましても、著者のほとんどの方々が坐禅の経験がないのではないかと感ずる面があるわけで、色々な事が書いてあるわけですが仏教と果たして関係があるのかどうか。つまり西洋哲学の考え方を基礎にして、西洋哲学の一種を述べているのではなかろうかと、そういう感じさえするわけであります。
ですから本当の意味の仏教というものを勉強するためには、どうしても坐禅をやらなければならない。そういう点から考えていきますと、今日の仏教というものを分ける場合に、坐禅をやっている仏教と坐禅をやっていない仏教と、そういうわけ方もあると考えられるわけであります。
つづく--
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葛藤とは何かという問題から考えてまいりますと、葛藤の「葛」という字はクズ、「藤」と言う字はフジという字であります。そして葛という植物も藤という植物も、自分の力だけでは立っている事の出来ない植物であります。したがって葛や藤は枝から蔓がでていて、その枝の蔓がそばの木に絡みつく力を持っているわけであります。そしてクズもフジも他所の木に寄りかかって植物として生きているといえるわけであります。
「葛藤」と言う言葉は、そういうクズの枝やフジの枝の状態から考えて、よそに絡みつくもの、あるいはお互いに絡みつき合って、もつれにもつれてどうにもならないものを「葛藤」と言うわけであります。
仏教でこの「葛藤」と言う言葉を使う場合には、普通は文字によって表された理論と言うものを表現する場合がわりあい多いわけであります。そういう文字で現された理論というものを一ぺんに断ち切る事によって本当の仏教に対する考え方が生まれてくると、こういうところから、葛藤と言うものは切り捨てるべきものだと言う理解の仕方が仏教における考え方であります。
ところが道元禅師はこの「葛藤」の巻においてどう言う事を説かれたかと言いますと、仏教の中心になるものは「葛藤」と呼ばれるような非常に複雑なものであると言う主張をしておられるわけです。我々は普通、師匠から弟子へ伝えられる「法」と言うものは非常に明快な言葉で表されたものであろうと想像しているわけでありますが、道元禅師は師匠から弟子に受け継がれていくものは、非常にもつれ合った、複雑な、単純な理論では説明する事の出来ない何かだと、こう言う主張をこの「葛藤」の巻で述べておられるわけであります。
このように仏教の中心思想が非常に複雑な、非常に沢山の要素が絡み合った単純なものではないと言う主張は、かなり貴重な思想だと言えようかと思うわけであります。実際問題として、師匠から弟子に与えられていくものは、かなり複雑な、実体的なものだ、現実的なものだと、そう言う事がこの「葛藤」の巻の趣旨から汲み取れるわけであります。
―西嶋先生の話―
今日、仏教というものを様々な観点から分けた場合に、色々な分け方があり得ると思うわけですが、一つの分け方として、「坐禅をやる仏教」と「坐禅をやらない仏教」と、こういう分け方があろうかと思うわけであります。私が仏教というものを考えていく場合に、仏教と言う思想は坐禅をやった時の体験と言うものを基礎にして生まれてきた思想だと、そういうふうに考えざるを得ないと感じるわけです。
ところが仏教に関連した本、また坐禅に関連した本を読んでさえ、著者が坐禅をしていないのではないかと言う記述に何回もぶつかるわけです。したがって、仮に坐禅に関連した本であっても、坐禅をした事のない方が坐禅の説明を書いておられると、坐禅によって得られる体験とまったく別の説明が行われている。これは不思議な事でありますが、事実そういう事があるわけであります。
最近も道元禅師に関する講座がある出版社から出ているわけですが、その講座の内容を読んでみましても、著者のほとんどの方々が坐禅の経験がないのではないかと感ずる面があるわけで、色々な事が書いてあるわけですが仏教と果たして関係があるのかどうか。つまり西洋哲学の考え方を基礎にして、西洋哲学の一種を述べているのではなかろうかと、そういう感じさえするわけであります。
ですから本当の意味の仏教というものを勉強するためには、どうしても坐禅をやらなければならない。そういう点から考えていきますと、今日の仏教というものを分ける場合に、坐禅をやっている仏教と坐禅をやっていない仏教と、そういうわけ方もあると考えられるわけであります。
つづく--
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