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正法眼蔵 菩提薩埵四摂法 11

四番目の「同時」について道元禅師が注釈されます。

同事とは人がやる事と同じ事をやるということである。 人がやる事と同じ事をやると言う言葉の意味は、周囲に対して背かないと言う事である。 自分自身に対しても背かないと言う事であり、他人に対しても背かないと言う事である。

釈尊の例をとってみるならば、釈尊は今から二千数百年前のインドにおいて、人間の世界に住んで、人間の社会においてその周囲に同調して生きられたのである。 その様であったから、釈尊はどんな世界の中に飛び込んでもその周囲と調和して生きられたであろう。

同事がわかってくると、自分と他人とが一体のものとして受け取れるようになり、自分と自分以外の境目とがなくなってくる。 中国のある時代には、社会生活を離れて自然の中に生きて、琴を友とし、詩を友とし、酒を友とした生き方が望ましいとされた時代もあった。

人間が好んだ琴や詩や酒は、人間を友とし、天を友とし、神を友としたとも言える。そしてさらに今度は人間の立場から琴を自分の友と考え、詩を自分の友と考え、酒を自分の友と考える立場もあるし、同時に琴や詩や酒が琴や詩や酒を友とし、人間が人間そのものを友とし、天が天そのものを友とし、神が神そのものを友とすると言う様な理論もあり、このような学び方が協調というものに関する本当の学び方である。



              ―西嶋先生の話―

坐禅をしている姿が権威があるという事に関連しては、私が坐禅の事を最初に教えてもらった沢木興道老師がよくいっておられた。沢木老師がまだ正式の僧侶になれない時代に、お寺にいた婆さんに「洗濯せい」「たくあん洗え」という事でこき使われていた時代があった。もちろんまだ正式の僧侶になれていなかったために、坐禅も他の僧侶はするけれども、ご自分はまだやることが出来なかった。

ところがある日、休暇でお坊さんが全員外出してしまった。自分一人がお寺に残っていたから、ちょうどいい機会だと思って暗い部屋で一人で見よう見まねで坐禅を始めていた。そこへ普段自分をいじめている婆さんが鼻歌まじりに入って来て、初めは暗いから沢木老師が坐禅をしていることに気付かなかった。そのうち目が慣れてきたと見えて、フッと沢木老師が坐禅をしている姿を見たところが、その場にヘタヘタッと腰を抜かしたように坐りこんで、手を合わせて、「ナムマミダブツ、ナムマミダブツ」と沢木老師の姿を拝んだ。

それを沢木老師は坐禅をしながら知って、坐禅をしている姿は途轍もなく威力のあるものだという事に初めて気が付いた。それが沢木老師が一生、坐禅をず-っと続けられた事の原因だと言われていたわけです。「正法眼蔵」に坐禅をしている人の姿を魔王が見た場合に驚いたり、恐れたりするという表現がありますが、現実の人間の姿ではありますけれども、正しい状態に置かれた人間の姿には威力があり、美しさがあるという事は言えるわけです。

ですから我々がスポ-ツ選手の物腰や体の状態を見た場合に、非常に落ち着いていて威厳もあるけれども、美しいと感じることが割合多い。そういう点では人間の体を練磨することが、人間を高め、また美しさを増すことでもあるという事が我々の生活上の事実としてあると言わざるを得ない。その場合に、一番やさしくて、一番単純な修行法として釈尊の残された方法が坐禅だと、そういう事が言えようかと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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