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正法眼蔵 菩提薩埵四摂法 9

三番目の「利行」について道元禅師が注釈されます。

「利行」とは人に利益を与える行いである。その身分が高かろうと卑しかろうと、どんな環境にあっても人に対して利益を与える何らかの手段を講じようと考えるいき方である。

※西嶋先生解説
我々が社会生活をしている以上、身分の高い人もあり、身分の低い人もあるし、お金をたくさん持っている人もあれば、お金を少なくしか持っていない人もいるわけでありますが、その様な環境はともかくとして、自分の置かれた立場、立場でやれるだけの範囲で人に良いことをしてあげようという気持ちを起こし、努力するのが利行である。

本文に戻ります。
実際の例を考えて見るならば、遠く離れている場合には遠く離れている場合の方法、近くにいるときには近くの人同士で与えることのできる利益の方法というものを考えて、それぞれ他の人に利益を与えようとすることが「利行」である。中国の書物の中に、孔愉という人が困っている亀を助けた話があり、亀を助けたその事が原因となって、後に余不亭という土地の高官に任ぜられたという話が伝わっている。

また楊宝という人が傷ついた雀を助けた話があり、雀を助けたその事が原因となって、三公の位についたと言う話も伝わっている。孔愉が窮地に陥った亀を見、楊宝が傷ついた雀を見た際に、彼らは亀や雀の報恩感謝を期待した訳ではなく、ただ一途に他のために尽くすという行為に駆り立てられたまでである。

愚かな人が考えるには、他に利益を与える事を第一に考えるならば、自分の利益が何処かへ行ってしまうと考えるが、しかし実情というものは決してそうではないのである。人のために何かをしてやるという行いは、一つのまとまった実在であって、自分自身の利益にもなるし人のためにもなるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先ほど先生は「情けは人のためならず」とおっしゃいましたけれども、それは二様の意味がある様に思うんです。一つは、情けは情をかけてもらう人のためにならないと言う考え方、もう一つは、人様に情けをかける事はめぐりめぐって自分のためになると言う考え方ですね。

先生
私はその後の方に理解しています。つまり人に何かをしてあげると結局は自分に帰ってきてしまう、否応なしに自分のためになってしまう、そういう意味に理解しております。

質問
私もそう考えておりました。あまり情をかけることは、いまで言うならば経育ママ的なことになって、必ずしも子供のためにならないという考え方もありはしませんかね。教育ママ的なやり方を見ていますと、かえって子供を損ねる、一方子供にすればもらい癖と言うんでしょうかね、そういう甘えた気持ちになってしまうと言うのは世間に往々ありますよ。

先生
うん、そう言う事があると同時に、一所懸命に教育する場合に、子供さんの成長を考えるよりも、自分自身のために子供を材料にして満足しているというケ-スもあるんじゃないかと思います。いま教育ママと言う話が出ましたけれども、いい学校に無理に押し込んで、子供が本当に望んでいるのかどうかよくわからんけれども、子供の将来のためにどうしてもさせなきゃいかんというふうに母親の方が思い込んで、子供がもう嫌で嫌でしょうがないのに無理に尻を引っ叩いて塾に行かせる、学校に行かせると言う事もあると思います。

ただ、そういうふうに無理にやった事が子のためになる場合もありますしね。だからその点では世の中の実態というものは非常に複雑なもので一概には言えませんけれども。確かに教育熱心な母親が本当に子供のためになっておるかどうかと言う事は考える必要はあるし、また教育熱心なのが子供のためではなしに、母親自身のためだという場合が割合あると言う事も考えて見なきゃならんという事は言えると思います。

質問
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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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