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正法眼蔵 菩提薩埵四摂法 8

「愛語」について道元禅師の注釈は続きます。

優しい言葉が何のために役立つかと言う事よりも、優しい言葉そのものに価値があるのであるから、現在の身体が続き生命が続いている限り、好んで優しい言葉をかけるべきである。敵対している同士を心服させると言う事も優しい言葉が根本であるし、非常に徳の高い同士が仲良くすると言う事も優しい言葉を掛け合う事が根本である。

面と向かいあった形で優しい言葉を聞く場合には、自然と顔もほころびてくるし気持ちも嬉しくなる。また面と向かってではないけれども優しい言葉を人から聞く場合には、肝にでも書きつけて記憶するような非常に強い印象を受けるし、魂に書きつけて長く記憶に残すという影響を与える。

銘記せよ。優しい言葉と言うものは、優しい心から起こるのであり、優しい心は慈しみの心を出発点としている。愛語よく廻天の力あり(優しい言葉をかける事が天地をひっくり返すほどの力を持っている)と言う事を学ぶべきである。そして人をほめるにあたってもただ能力のあるものだけをほめておけばよいというものではない。

※西嶋先生解説
私は若い頃、この「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」という言葉は非常に気に入った言葉として記憶しておったわけであります。「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」これは文学的な誇張ではなくて、人間社会の実情がこうだという事がはっきりいえると思うわけであります。

人間社会の中では人と人がぶつかり合っておるわけでありますから、その人と人とがぶつかり合って生きておる場合に、少しでも和やかな関係を作るためには、優しい言葉というものが絶対の力をもっておるという事、この事は社会生活をしていくうえにおいてどうしても忘れることのできない、非常に大切な問題だという事が言えようかと思うわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき
質問
「愛語」というのをこの額面どおり伺っていると、易しい言葉という事で限定してしまうと、私などかなり厳しい言葉で相手を切る事がありますけれども、それは結果的にその人を私がほんとに見かねて、その人の苦しさを少しでも打開してあげたいとか、協力的にやってあげたいというこちらの熱意が厳しさの中にも伝わっていくという実感をいつも持っているわけです。だから「愛語」と言う言葉を、優しさとか慈しみとか、表面上だけで解釈してはまずいんじゃないですか。

先生
うん、その通りです。だから強く叱る、厳しく叱ると言う事、これはいいんですよ。ただ感情が中にこもると、単なる強さ、単なる厳しさでなくなると言う事がある訳です。人にいう場合に、強く言う、強く叱ると言う事、これは決して悪い事じゃないし、そう言う事も「愛語」の中に含まれると思います。だから感情がこもる、こもらんと言う事、つまり怒りの感情がこもった形ではいけないとこういう主張になると思います。言葉の激しい、激しくないと言う事は、必ずも愛語、愛語でない、と言う事の区別には繋がらないと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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