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正法眼蔵 菩提薩埵四摂法 6

布施について道元禅師の注釈は続きます。

もし仮にほんの僅かなものを人に施す事が出来たならば、それは自分自身の行動に他ならないが心ひそかにその行動を心から喜ぶべきである。なぜならばそれは、真実を得られた方々が持っている(人にものを与えると言う)一つの性質をすでに正しく受け取って、それを自分自身で実際に実行したのであるし、仏道修行をしている人の行うべき一つの徳目を初めて実際に行う事ができたからである。

中々切り替えることの難しいものの一つは人々の心である。そこでほんの一つの財物を手始めとして、人々の気持ちを少しずつ変えていこうとする糸口をい掴み、それ以後真実を把握するに至るまで少しずつ変えていこうと努力すべきである。そしてその最初は例外なしに、人に物を与える事から始めるべきである。この様な事情から、菩薩が行う真実に到達するための六種類の行いの一番初めに、人にものを与えると言うい「布施波羅密」と言う修行法があるのである。

「心」と言う言葉があるけれども、その心というものは一体どういうもので、どの位の大きさがあるかという事は想像がつかないし、物質の価値の大小についても測定は不可能である。しかしながら人に物を与えたいと言う気持ちが物の価値を変えると言う事もあるし、また人に何かを与える事によって、自分自身の気持ちが凡夫の心から仏の心に切り替わるという事もあって、その様な形で布施(人の物を与える)と言う行いは行われて行くのである。



              ―西嶋先生の話―

釈尊の「四諦の教え」は、仏教の大切な考え方として何回も説かれています。「諦」は訓で読むと「あきらめる」です。「あきらめる」は断念すると言う意味ではなくて、はっきりさせる、明らかにすると言う意味です。仏教ではこの世の中を考えていく場合に、四段階の考え方でいくべきだという主張があるわけです。それが四諦論の意味です。

苦諦の考え方
人間が誰でも最初に持つ考え方で「ああしたい、こうしたい、、ああしなければならない」と言う、理想や願望を基準とした考え方。その結果、理想に燃えて一所懸命やると現実にぶつかって傷つく。
 
集諦の考え方
この世の中は物質的な物の集まりだ。原子とか分子とか細かい微粒子の集まりで出来上がっている。原因結果の関係の集積に縛られている。人間が良心的に一所懸命に努力すると言う事よりも、現実がどうなっているかと言う現実そのものを見るという点では優れているけれども、人間の努力と言うものにあまり信頼をおかない。結果どうせ駄目だからと言ってあきらめると、生きている張り合いがなくなってしまう。

滅諦の考え方
釈尊は苦諦、集諦の考え方では、人間は幸福を感じ得ないと言う事に気づかれた。理想を追求しながら、しかも現実と調和して行く生き方がどこかにないかと修行し苦心された。その結果、釈尊が説かれた事はものを考えると言う事や物質的に色々なものを受け入れると言う事よりも、人間が生きがいを感じたり人生に意味をもたらすものは「何をするか」「どういう行動をするか」と言う事が大切だということに気づかれた。

道諦の考え方
行動はそれがまずければ自分自身が被害を受ける。また人に被害を与えると言う事もある。実際に行動するという事は簡単なようで難しい。実際に日常生活で積極的に行動しながら、しかも自分が傷つかないで他人にも傷を与えないと言う生き方はどうしたらいいのかと言う問題になる。釈尊が説かれた事は人間が本来の状態に立ち返ったところでやる行動は、自分自身をも傷つけないし、人にも迷惑を与えないと言う事。

それはなぜかというと、我々は法と言う現実の世界の中に生きている。だからその法の世界を支配している原則を自分自身が身につけて、その原則に従って生きるならば、自分も満足するし人にも迷惑をかけないで、自分にも他人にも幸福を与える事が出来る。釈尊は人間が幸福になるためには、自分の本来の状態に戻らなければならないと言う事を悟られて、その自分の本来の状態に戻る修行法として「坐禅」を考えられた。

  
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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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