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正法眼蔵 菩提薩埵四摂法 5

布施について道元禅師の注釈は続きます。

アショカ王の物語として、果物の半分を数百の僧侶に分けようとしたところが、その半分の果物が数百人の僧侶に供養して十分に行き渡らせることができたという話が伝えられているけれども、その様な物語の例から考えても、ほんのわずかな施しであっても、それが大きな供養になるという事の証明であって、このような事情というものを布施を与える人も布施を受ける人も同じように学ぶべきである。

人にものを与えるに当たっては、自分の体を励まして一所懸命に人のために何かを与える事を行うと同時に、たまたま自分に与えられた機会を無駄に過ごす事なく、そのような機会を利用して人にものを与えるという事をすべきである。自分自身が人にものを施すという性質を本来具えているところから、現在の自分自身があり得るのだという事を考えてみるべきである。

釈尊の言葉として「自分自身においてさえやはり自分自身で何らかのものを受け、またそれを活用する事が行われるのであるから、自分が父や母、妻や子にものを与える事はなおさら当然の事である」と言われている。この様な釈尊の言葉から考えるならば、自分自身に何かを与える事も布施の一部だと言えるし、また自分の父母、妻子に何かを与える事も布施の一部であろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は永平寺の別院で坐禅をしたとき、初めて警策というので叩かれたんですね。凄い勢いで叩かれて、怖くて、びっくりして、もう坐禅どころじゃないような感じになって落ち着かなくなりましてね。外から見た場合、姿勢を正すという意味なんでしょうが、ああいうやり方というのは、道元禅師の幅広い坐禅の捉え方とちょっと違うんじゃないかって、そんな感じがするんです。

先生
まあ、そういう見方がある程度成り立つと思います。というのは、道元禅師のお書きになったものにはその警策というものは出てこないんですよね。だから道元禅師の時代に警策をお使いになったのかお使いにならなかったのか、どうもはっきりしないんです。私が坐禅を指導する場合に警策を使わないのはなぜかと言いますと、私の考えでは警策は坐禅の邪魔になるという見方です。

沢木老師のところでは警策を使っておられましたから、もちろん私も若いころ経験しましたけれども、やっぱり警策が回ってくると自分の坐禅している時の気持ちがよそ行きになるんですね。「あ、来た、来た、来た」(笑)と思うと、叩かれちゃ大変と思って一所懸命やるわけだけど、それが静々と自分のところを通り過ぎると「やれよかった」と、こう思うわけで。そういう思惑というのは坐禅の邪魔になる、というのが私の見方です。

そういう点では、警策を使う事が本当に坐禅のためにプラスになるのかマイナスになるのか、その辺は疑問だと思います。で、私はそういう意味から使わないんです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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