FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 菩提薩埵四摂法 4

布施について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。なぜ人々が布施をする人を自然に眺めるかと言うと、人に施しをしようという気持ちを持っている人の心中が言葉では表さなくても自然に他の人に伝わるところから、人々はその施しをする人を眺めるのである。このようなところから考えてくると、たとえ一つの言葉、たとえ一つの詩の教えといえどもそれを人に与えるべきであり、それが生涯において善行を積む事に繋がるのである。

ほんの一銭に相当する僅かな財物といえども、それを人に与えるという事をすべきである。その事が世の中において善行を積む事の原因に繋がるのである。釈尊の説かれた教えも財貨と同じという事が言えるであろうし、財貨もまた釈尊の教えと同じ様な意味を持っていると言える。その様に釈尊の教えが物質的な価値を持ち、また物質的な価値を持っているものが釈尊の教えの意味を持つという事は、それぞれの環境において人々が持つ願望と関係して様々な姿を現すのであろう。

中国の物語に病気になった人に施すために自分の髭を与えて人心をとりまとめたという皇帝の話が伝わっているし、子供が釈尊の鉢に砂の供養をし後に国王の位を得たという物語も伝わっている。それは布施をして何らかの報いを得ようと言う下心があっての行いではなしに、自分が持っている限りの力の中で、人に分け与える事のできるものを分けるという事に他ならないのである。

渡りにくい河に船を設備したり橋を架けて人を渡らせる行いも、人にものを施すという真実に到達するための修行過程の一つである。布施の実態を十分に勉強した場合には、自分の体を大切にして社会生活をすることも布施の一種であるし、わが身を犠牲にして社会のために尽くすという事もやはり布施の一種である。様々の産業において働くという事も布施の一種である。花が散るのを風に任せておく、鳥が鳴くのを鳴くままに任せておく事も、物を人に施すという事の一つの行いであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき

我々は損得の世界、権力の世界で生きているつもりでいるけれども、だから権力を得よう、損得の点で有利な地位に立とうという事で一所懸命努力しているけれども、結局は法(宇宙秩序)の世界の中の蠢きです。だから「法」に従って生きるという事が最高の政策であって、それ以外に社会を生き抜くだけの政策と言うものはないと言う事はハッキリ言える。

世間ではそう思っていないから、あの手この手と色んな手を考える訳ですよ。そしてこれでいったら絶対だと思ってやっていると、そのうちに裏が出て来るわけです。そうするとせっかくいい手だと思って一所懸命やっていた事が今度はマイナスに作用すると言うような事で、浮き沈みのうちに生きていくのが普通の人間の生き方ですよ。仏道はそう言うくだらん生き方をしたくないと言うところから生まれた思想です。この世の中の真実というものをしっかり掴んで、その真実に従って生きていくならば一番いい人生が送れると言っているわけです。

だから社会的に成功する原因と言うのは必ず失敗する原因でもあるわけです。これは近い例がいくらもある訳です。お金を集めて総理大臣になれば、その事が原因になって失脚するわけです。これは商売でもそうです。非常に特殊な方法で、まあ多少は法に触れるような形で、際どい儲け方をした商売と言うのは必ずひっくり返る。その点では、地道に真面目にやっていると言う事が長続きする事であるし大きくなる所以でもあるわけです。

大道でお客を騙してやっている様な商売で財産を残したと言う例がない。その点では世間というのは案外厳しいものですよ。いい加減な事をやっていたんでは決して生き残れないものだと思います。だからそういう点では、真面目にやる事が最高の政策だと言う事はハッキリ言える。西洋の言葉にもあるんですよね「正直は最高の政策だ」と言う諺がね。だからこの点では東西どこの社会でも同じですよ。人間の社会と言うのはそう頭で考えるほど甘い社会じゃないからね。厳しい社会を生き抜こうと思ったら、真実に従って生きるしか手がないんですよ。


ご訪問ありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-