正法眼蔵 菩提薩埵四摂法 2
「正法眼蔵」 > 46・菩提薩埵四摂法 - 2018年09月14日 (金)
菩提薩埵四摂法の巻、本文に入ります。
菩提薩埵四摂法とは何かと言うと、一は布施、二は愛語、三は利行、四は同事である。菩提薩埵四摂法の最初に「布施」という言葉があるけれども、その布施と言う言葉の意味は貪らない事である。貪ぼらないと言う事は欲張らないと言う事である。そしてさらに欲張らないという事は、世間一般で言う様に打算的な利益に執着しない事である。
仮に全世界を統一し支配するような力量のある人といえども、正しい教え、真実というものを人に教えて、その人々を教化するに当たっては、貪らないと言う事がその中心である。その事はへつらわないと言う事であるし、真実を歪めないと言う事でもある。それはどういうことかというと、自分が要らなくなったものを、自分が知らないような人でも、たまたまそれを欲しがっている人があれば「どうぞ」といって差し出すことである。
たとえば遠くの山に生えている花を釈尊に供養したという例であるとか、過去において一所懸命努力した事によって得た財物を人々に施すとか、その様な例に関して言うならば、釈尊の説かれた教えという立場からみても、物質的な財産という面から考えて見ても、欲張らず与えるという個々の場面においては、常に何かを施すという行いに関連した性質というものがはっきりと具わっているのである。
山に生えている花は自分のものではなく自然に生えている花ではあるけれども、それを釈尊に供養する事も布施を行うと言う点では一向に差し支えないと言う基本的な考え方がある。ある子供が釈尊に砂を供養して釈尊の持っている食器の中に砂を入れたという物語もある。そのように何ら価値のないものについても布施という事はあり得る。施すという行いの中身がしっかりしているかどうかと言う事が大切である。
―西嶋先生の話―
仏道修行者が人と接する場合の四種類の大切な方法と言う意味で、一番目は人に施しをする事。二番目は人にやさしい言葉をかける事。三番目は人の役に立つようなことをする事、四番目は人と同じようなことを協調してやる事、こう言う四つの態度が人と接する場合に非常に大切な事であって、これが仏道の立場であると、こう言う事が「菩提薩埵四摂法」の巻に述べられている概略です。
この様な四つの行いと言うものが、決して本来やりたくないんだけれども無理にやると言う形のものではなくて、仏道の立場で生きている限り、自然に人に施しをしたくなるものであるし、優しいし言葉をかけるような気持ちになるものであるし、人のために働きたいと言う気持ちにもなるし、人とあんまり違った事をやらずに、なるべく協調して日常生活を送って行くという気持ちにもなると言う事で、この四つの徳目がいずれも人間として極めて自然な状態だと、こういう主張が仏教にはある訳です。
ですから、こういう四種類の態度になれない場合には、自分が少し仏の状態から外れていると自覚せざるを得ないと、そういう言う問題も含んでいる訳であります。ですから自分が仏の状態になっているかどうかと言う事を検討する場合には、人に何かしてやりたいと言う気持ちがあるかかどうか、人に対する言葉が柔らかいかどうか、人のために色々やっているかどうか、人と協調的に動作できるかどうかと言うふうな事を検討して、自分が仏の境地になっているかどうかを逆に試してみる、そういう問題でもあるわけであります。
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菩提薩埵四摂法とは何かと言うと、一は布施、二は愛語、三は利行、四は同事である。菩提薩埵四摂法の最初に「布施」という言葉があるけれども、その布施と言う言葉の意味は貪らない事である。貪ぼらないと言う事は欲張らないと言う事である。そしてさらに欲張らないという事は、世間一般で言う様に打算的な利益に執着しない事である。
仮に全世界を統一し支配するような力量のある人といえども、正しい教え、真実というものを人に教えて、その人々を教化するに当たっては、貪らないと言う事がその中心である。その事はへつらわないと言う事であるし、真実を歪めないと言う事でもある。それはどういうことかというと、自分が要らなくなったものを、自分が知らないような人でも、たまたまそれを欲しがっている人があれば「どうぞ」といって差し出すことである。
たとえば遠くの山に生えている花を釈尊に供養したという例であるとか、過去において一所懸命努力した事によって得た財物を人々に施すとか、その様な例に関して言うならば、釈尊の説かれた教えという立場からみても、物質的な財産という面から考えて見ても、欲張らず与えるという個々の場面においては、常に何かを施すという行いに関連した性質というものがはっきりと具わっているのである。
山に生えている花は自分のものではなく自然に生えている花ではあるけれども、それを釈尊に供養する事も布施を行うと言う点では一向に差し支えないと言う基本的な考え方がある。ある子供が釈尊に砂を供養して釈尊の持っている食器の中に砂を入れたという物語もある。そのように何ら価値のないものについても布施という事はあり得る。施すという行いの中身がしっかりしているかどうかと言う事が大切である。
―西嶋先生の話―
仏道修行者が人と接する場合の四種類の大切な方法と言う意味で、一番目は人に施しをする事。二番目は人にやさしい言葉をかける事。三番目は人の役に立つようなことをする事、四番目は人と同じようなことを協調してやる事、こう言う四つの態度が人と接する場合に非常に大切な事であって、これが仏道の立場であると、こう言う事が「菩提薩埵四摂法」の巻に述べられている概略です。
この様な四つの行いと言うものが、決して本来やりたくないんだけれども無理にやると言う形のものではなくて、仏道の立場で生きている限り、自然に人に施しをしたくなるものであるし、優しいし言葉をかけるような気持ちになるものであるし、人のために働きたいと言う気持ちにもなるし、人とあんまり違った事をやらずに、なるべく協調して日常生活を送って行くという気持ちにもなると言う事で、この四つの徳目がいずれも人間として極めて自然な状態だと、こういう主張が仏教にはある訳です。
ですから、こういう四種類の態度になれない場合には、自分が少し仏の状態から外れていると自覚せざるを得ないと、そういう言う問題も含んでいる訳であります。ですから自分が仏の状態になっているかどうかと言う事を検討する場合には、人に何かしてやりたいと言う気持ちがあるかかどうか、人に対する言葉が柔らかいかどうか、人のために色々やっているかどうか、人と協調的に動作できるかどうかと言うふうな事を検討して、自分が仏の境地になっているかどうかを逆に試してみる、そういう問題でもあるわけであります。
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