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正法眼蔵 古仏心 11

大証国師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

その様に様々な角度から勉強を進めて行った場合に、垣根や壁は人間が造ることによって出現させるのであろうか、垣根や壁というものがあればこそ人間が努力して作るという動作が生まれてくるのであろうか、あるいは人間が作るのか、作らないのかという事とは切り離されて、現に目の前に垣根や壁があると捉えるべきなのであろうか。

また垣根や壁は心理作用というものを持っているのかどうか。それが「ある」と主張するのが正しいのか、「ない」と主張するのが正しいのか。現に我々の目の前に垣根があり壁があるるけれども、本当にあるのかどうか。それが本当にあると見る事が正しいのか。あるいは本当は実在しないんだ、ただ目の前に見えているだけなんだ、と考える事が正しいのであろうか。

このように様々な角度から勉強し検討した場合、その現れてくる場所が天上の世界であろうとも、人間の世界であろうとも、あるいはそれ以外の世界であろうとも、古仏心(永遠の意味を持った真実を得た人の心)と、垣根や壁や瓦や小石とは全く一つのものだと言う主張が最終的に残るのである。

この様な最終的な立場で、「古仏心」と「垣根・壁・瓦・小石」とは全く一つのものだと言う事を主張し、そういう形の世界が法の世界であり現実の世界だと主張した場合に、その様な捉え方の他にほんの僅かではあるけれども別のものが現れて来て、現実の世界を汚すと言う事はいまだあった試しがないのである。

「古仏心」や「垣根・壁・瓦・小石」は、様々な角度から捉える事が出来るけれども、その様なものがたった一つのものに重なった段階が我々の生きている現実の世界であって、その様な現実の世界以外にはほんの一欠けらのものも存在しないのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅を組んでいる時は、「無」でなきゃいけないとよく言いますね。

先生

そう言う事じゃないんです。坐禅をしている時に、いろんな考え方が出てくるんです。これが普通の人間のあり方なんです。考えようとして出てくる考え方ではなしに、考えまいとしていて出て来る考え方は、それぞれの人にとって心の奥に押さえつけられていたものが外へ出て来るんです。

だからそういうものがすべて外に出てしまうと気持ちが楽になって、この世の中が楽しくなると言う事なんです。坐禅の時にいろんな悩みが出て来る、いつの間にか気が付かないうちに考えていたなんて言う事は誰にでもあるんです。その事を決して気にする必要はないんです。そう言う状況がどんどん、どんどん続いていくと、心の中に押さえつけられていたものが、どんどん、どんどん外に出て行ってしまう。

そして本来の自分というものがそこに出て来る。そう言うのが坐禅というものの意味です。だからいろんな考え方が出て来るという事は、気にする必要がない。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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