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正法眼蔵 古仏心 10

大証国師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

大証国師が僧侶の質問に対して「古仏心とは垣根、壁、瓦、小石」という答えの意味は、現に目の前にあるところの垣根や壁や瓦や小石に向かって一歩積極的に近づいた立場で垣根、壁、瓦、小石と言う意味である。この様に垣根、壁、瓦、小石に関連して、一歩近づいた現実の垣根、壁、瓦、小石を述べるやり方があるけれども、それと同時に、自分自身が垣根や壁や瓦や小石の立場になって、そのものの中に入り込んで述べるところの一歩退いた形での垣根、壁、瓦、小石と言う言葉の意味もある。

この様に主観的立場と客観的立場との両方を兼ね備えた表現として垣根、壁、瓦、小石が完全な形で、欠ける事のない形で述べられる場面において、さらに具体的に垣根、壁、瓦、小石を考えてみるならば、壁が七千尺、七万尺と言う非常に高い壁となって我々の目の前に立っているという場合もある。大地や大空いっぱいに立ちふさがっているような垣根もあり得るし、また瓦に関連して考えて見るならば、一欠けら、半欠けらと言う極めて小さい極めて具体的な瓦と言う存在もあるし、ある場合には大きく、ある場合には小さい、具体的な尖った小石という現れ方もある。

この様な形で現実に捉えられた垣根、壁、瓦、小石というものは、心に映った現象だけではない。単に心で捉えられた客観的なものと言う事情だけではない。単に現象だけの意味ではなくて、実体を具えた物質的なものだという事も言える。また別の言葉で言うならば、単に心だとか物体だとかと言う主観と客観を別々に分けた立場からの捉え方ではなしに、主観と客観とが一つになった現実のものとしての捉え方もあるであろう。

この問題を考えていく場合には垣根、壁、瓦、小石が一体何を意味しているか、と言う質問をすべきであるし、それと同時に垣根、壁、瓦、小石は言葉では表現できない何かだと言う主張もすべきである。そして垣根、壁、瓦、小石が一体何かという質問を受けたならば、古仏心(時間を超越した真実を掴まれた人の持っている心)と別のものではないと答えるべきである。この様に理解した上でさらに勉強を進めていくべきである。垣根や壁と言う言葉があるけれども、一体その垣根や壁と言う言葉は何を意味しているか、一体、何を垣根や壁と言うのであろうか。垣根や壁とは現在どの様な姿形を示しているのか、詳細に勉強してみる必要がある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―                              
    --つづき

質問
その方が深いですね。

先生
深いか深くないかはともかくとして、それしかないんですよ。 実際にやってみると、それしか人間の生きようというのはないと思います。 ところが普通人間というのは非常に自信があるから、自分は意思でもって何とかやれるもんだと思っているから、一所懸命やったつもりで努力はするんだけれどもうまくいかないと言うのが実情です。

ただ釈尊の教えからするならば、人間はやりたい事を坐禅なしにやるだけの能力がないんですよ。坐禅をやって初めて自分がやりたいと思う事とやっている事とが一致すると言う だけものでね。 頭の中で考えて、こうしなければならん、ああしなければならん、と言ってみても、そんな事は出来るはずがない。人間はそれだけの能力を持っていないんです。むしろ自分の体や心を調整すると、自然におかしな事をやらなくなる性質を持っていると言う事でしかない、と言う事が仏教の基本的な考え方になるわけです。

質問
孔子のいまの説は仏教の方でいえば、第一段階の苦諦のところですか。

先生
まあ、孔子さんも大変苦労をされて、非常に年を取ったところでやっとおさまって来たと言うことはあったんだろうと思います。まあ苦諦の立場という事だけに割り切ってしまうとお気の毒だから、もっと高いところまで行かれたと考えていいと思いますけれどね。
  
質問
今のお話の中で、頭で考える事なしにという事よりも、厳密に言うならば、頭で考える事も含んで、でしょうね、頭で考える事を全部否定しちゃうんですか。
  
先生
ただね、人間がまともになると言う問題については、頭で考えているとまともになれないんですよ、これは非常に不思議な事でね。人間は頭で考えてまともになり得ると思っているけれども、日常生活を実際に経験してみると、まともな事をやっている時はものを考えていない時です。夢中になって一所懸命やっている時はややまともな事をやっているだけの事でね。これがまともか、これがまともでないかと言う様な事を考え始めたら、大体外れていくと言う恐れがあるわけです。
  
質問
坐禅をするにしましても、やはり頭で考える分野があっていいわけですね。

先生
頭で考えるのは、行動をして後で考えるんです、あるいは行動をする前に考えると言う事はあるわけです、実際に行動している時には、頭で考えると言う事よりはいわゆる智慧で動く訳です。智慧というのは、頭で考えると言う事ではなしに、直観的な判断に頼って行動する事。しかし直観的な判断が正しい場合もあるし、誤っている場合もある訳です。だから坐禅によって体を調整し、心を調整した時だけ、正しい智慧がわいて来てソツなく動けると言う事になる。

人間が正しく動くという事は、ソツなく動くと言う事です。間を外さないと言う事です。ところが間を外さないなんてと言う事は中々難しい事で、頭で考えても出来ないわけですよ。だからどうしても体の調整、心の調整なんていうものが不可欠になって来ると言うのが仏教哲学の基本にあるわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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