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正法眼蔵 古仏心 9

大証国師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

さらに古心(時間を超越した心)が真実を実践する事態もあろうし、古心が真実を体験する事態もあろう。また古心が真実を得られた方となる事もあろうし、真実を得た方々の持っているものと言う事が胆に落ち着く事態でもあろう。真実が永遠の性格をも持っていて、それが我々の心を形ずくっているという事情もあるであろう。

古心というものは、別の言葉で表現するならば、時間を超越した永遠のものだと言う事が言えるからである。そのような時間を超越した心を持った仏(真実を得た人)は、例外なしに永遠の時間の中で生きておられるのであるから、時間を超越した心とは何かと尋ねて見るならば、眼の前の椅子でありその椅子を形ずくっているところの竹であり木である。

そして我々の住んでいる大地の中で一人でも釈尊の教えを理解した人を見つけようとして努力してみても、それは不可能であるという事情に他ならない。なぜならば、釈尊の教えは実践すべきものであって理解すべきものではないからである。また別の言葉で言うならば、師匠に対して、この様な具体的な事物、あるいは現に我々が今ここにいると言う事実を和尚はいったいどのような言葉で表現されますか、と言う言葉によって表現されるところでもある。

この様に考えてくると、現にいま我々がここにいる現在の時間、周囲の環境というもの、この世界に存在する多数の国々、それを入れているところの空間という実態そのものが古心という名前で呼ばれている。この世の一切が永遠の意味を持った心を保持し、同時に永遠の意味を持った真実を得られた方々の実体を具えていると言う事は、外見的には一つの姿ではあるけれども、心と実体の両方を保持し、心と実体との両方の姿を現しているものと言える。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
自分自身を統率できる事が古仏の特徴だ、とありますが、誰が言ったか忘れちゃいましたが、「30にして立つ、40にして惑わず、70にして己の欲するところに従うも矩を踰えず」と言う、そんなのをいま思いだしたんですけど、それに当たるんですか。

先生
そういう意味も含んでいます。

質問
そういう意味も、ですか。

先生
はい。今言われた言葉は孔子の「論語」に出てくる言葉ですけどね。

質問
ところが70になって矩をしょっちゅう喩えちゃう。(笑)

先生
矩と言うのは人間の頭で作り出したものと言うところがあるんですね。だから矩を踰えずと言う事よりも、自分自身が日常生活をきちんとやって後悔しないと言う事、そのほうが仏と言う状態を説明していると思います。あんまり法則とか矩というものを気にすると、外れてばかりいるわけです。

と言うのは、矩というふうなもの、法則というふうなものも、頭の中で考えられた様なものがあるのではなくて、生身の人間が動き回っている事自体がどういう状態かと言うところに問題があるわけです。客観的な、頭の中で考えられた基準に違反している、違反していないと言う捉え方でなくていいわけです。

質問
そんならば、そのほうが今このお話を伺ってるのと同じですね。

先生
そう、そういうことです。坐禅は何のためにやるかと言うと、そう言う事のためにやるわけです。人間が頭の中で、これはやっていい、これはやってはいけないと言う様な事を考えて苦心してたってうまくいく筈がない。これはもう仏教哲学の基本ですよ。普通、良心とか何とかと言う事を考えて「自分はまだまだ駄目だ」と言う様な事で大いに自分を責めたりなんかしているけれども、そんな事でうまく行った例がないんですよ、人間と言うのは。

だから釈尊が、坐禅をして体の調整をしておれば、自然に本来の境地の中に入って行ってしまう、そしてそれから出られなくなると、こう言う事を言われたわけです。その点では、人間が頭の中で考えて、いい事をやった、悪い事をやったと言う様な事でクヨクヨするよりは、朝晩、機械的に坐禅をやっているに限ると、こう言う事になる わけです。

                            つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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