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正法眼蔵 古仏心 6

疎山光仁禅師が言われた:古仏(時間を超越したどの時代にも通用する真実を掴まれた人)が住んでおられたと言われる大庾領と言う山には素晴しい雰囲気があって、その放つ光が我々の住んでいる世界にまで到達する。

道元禅師が注釈されます。
銘記せよ。この様な言葉から、疎山光仁禅師自身が古仏とすでに直接お会いしていて同じ境地にあったと言う事が推察できる。その様な古仏のおられる場所というものを、あちこちと見つけて様々のところにあるというふうに考えるべきではない。大庾領の様に梅が沢山咲いている非常に素晴しい境地に真実を得られた方々というものは存在すると考えるべきである。

しかも自分自身が古仏でない場合には、古仏が出現する場所を知る事ができない。古仏がどういう場所におられるかがわかるという事は、そのわかる人自身がすでに古仏そのものである。



              ―西嶋先生の話―    
    --つづき

三毒とは何かと言うと、貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)である。仏教では、この三つのものを避けなければならないと言う釈尊の教えが伝わっている。

痴(ち)というのは愚痴。我々は何か失敗すると、いつまでもいつまでもその失敗を考えている。「あんな事やらなければよかった」「あれさえなければ・・・」と言う様な事を年がら年中考えている。しかし過ぎ去った事というのは決して戻ってこない。過ぎ去った時間を元に戻してもう一度やり直したいと言う事は絶対出来ない。どんな偉い人でも出来ない。お釈迦様でも神様でも、過ぎ去った時間を元に戻してもう一度やり直すと言う事は絶対に出来ない。

我々の人生はそういう仕組みで出来ている。そうすると、過ぎた事はくよくよ考えてもしょうがない。だから今後そういう事がないようにと言う努力にならざるを得ない。そういう点では、愚痴っぽくグズグズといろんな事を悔やんだり、不平を言ったりする事を避けなさいと言う事。これも感情的に気持ちをふさいでしまって、もっと明るく考えればいい問題を、暗く暗く考えて不平不満で生きて行く生き方もあるわけ。

そういうものを避けろと言われている。釈尊の教えの中でもこの三毒を避けると言う事は、我々の日常生活においてかなり頻繁にある、また非常に役に立つ教えと言う事になるわけです。我々が坐禅をするという事は、自然にこういう状態から離れると言う事をやるわけです。「腹を立てまい、腹を立てまい」と思っていても、なかなか人間そうはいかない。あるいは「欲張っちゃいかん、欲張っちゃいかん」と思っていても、中々そうはいかない。「愚痴っぽくなってはいかん、愚痴っぽくなってはいかん」と思っていても中々そうはいかない。

ただ坐禅をやる事によって、体を調整し心を調整しておけば自然に腹立ちが起きなくなる。あるいは欲張りや愚痴っぽくなる事がなくなる。そういう形で体の調整・心の調整が自然に出来てくる。そういう意味で、坐禅をやる事が大事になってくる。こういう事があろうかと思うわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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