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正法眼蔵 古仏心 4

真実を得られた方々の相互の関係においては、時代を超越した関係もあるし、また同じ時代においてもお互いに関係を持ちながら同時に排除し合わないという関係があると言う事を勉強して見る必要がある。

この様にいま述べて来た四十人の真実を得られた祖師方は、いずれも永遠の意味を持った真実を掴まれた方々ではあるけれども、心もあれば体もあり、輝きも具わっていれば、それぞれの国に住んでいたという事情もあった。過ぎ去ってから久しいという形容が該当するような性質もあれば、いまだかつて過ぎ去ったためしのないものだという形容が該当するような性質でもある。

その点では真実を得られた方々の実態というものは、今日でも真実を得られた方々の生命が生き生きと我々の時代に生きているという捉え方も出来ると同時に、亡くなってから随分長くたったという事情も同時に存在する。この様な事態が永遠の意味を持った真実を究められた方々の持っておられた性質であろう。

このような古仏(永遠の意味を持った真実を得られた方々)の教えを学ぶと言う事は、古仏の教えを実際に体験する事であり、古仏の道を実際に体験するという事によって、様々の時代における古仏が存在し得るのである。ここに言っているとこの古仏という言葉の中における「古」と言う字は、新しいとか古いとかと言う言葉の中における「古」と言う字と全く同じではあるけれども、それと同時に、古いとか新しいとかという差別、過去とか現在とかと言う差別を超越して、過去・現在すべてを引っ括めた永遠と言うものとまさに向き合っているのである。



―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は企業の中にいた時も妥協のない生活というか・・・。

先生
そう、それはあったね。というのも妥協なんていうのも人間が頭で作り出すから、妥協したとか、妥協しないとかと言う事があるんであって、現実というものはそういう抽象的な理解で割り切れない世界ですよ。目の前にあるものを処理すると言う様な事でしかないと思う。

だから、妥協するとか、妥協しないとか、そう言う事も傍から見ればそういう解釈が出来るだけです。人間の生き方というものはもっと直接的なもので、妥協があるとか妥協がないとかの理解を乗り越えた世界が現実の誰の生活でもあると思います。だから「妥協しなきゃあ」なんて無理に思うと現実離れしてしまうわけですよ。

妥協しなくてはならない場面ではないのに「いや、ここで妥協しなきゃ」とか、あるいは「ここで妥協しちゃあいけない」とか、どっちかに偏って考えるわけだけれども、「法」というのは、そういう妥協するとか妥協しないとかいうものよりも、もっと厳密などうにもならない現在の瞬間ですよ。

だから世間的な考え方をすると、妥協するとか妥協しないとか、妥協する方がいいとか、妥協しない方がいいとかと言うけれどこれはぜんぶ頭の中で考えた事です。日常生活において何をやっていくかと言う事は、それほどレッテルで色分け出来る性質のモノではないという事。これが実態だと思いますね。そういう考え方が仏道なんです。

新聞なんかでは人気が出ないですよね。こういう考え方は。あの人は妥協してない、なんていうと話しになるしね。あの人はどうも妥協ばかりしてるという、これも話になるわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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