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正法眼蔵 古仏心 3

「古仏心」の巻、本文に入ります。

仏教界における代々の祖師方が法(宇宙秩序)を次から次へと伝承してきたことにより、釈尊以前の六人の祖師方と釈尊を加えた過去七仏から代々の祖師方の数を数えてくると、中国の六祖大鑑慧能禅師に至るまで四十人の祖師方がおられた。また中国の六祖大鑑慧能禅師からさかのぼって過去七仏に至るまで、四十人の祖師方がおられた。

※西嶋先生解説
この様に過去から現在に向かって数を数え、また大鑑慧能禅師から過去に向かって祖師方の数を数えると言う事はどういうことかというと、真実の世界においては時間が過ぎ去ると考えることもできるし、また現代から過去にさかのぼると考える事ができる。つまり時間というものは過去と現在とが本質的に違いがない。永遠と言う時間の見方からするならば、過去も現代もそう質の違うものではない。昔から今日に数える事も出来るし、今日から過去に向かって数える事も出来る。

本文に戻ります。
そして過去七仏はいずれも過去の先輩に向かってさかのぼり、後世の継承者に向かって下るだけの時間を超越した性質が具わっている。大鑑慧能禅師もまた過去から現代に来たり、現代から過去にさかのぼると言う七仏と同じ様な性質が具わっている。つまり永遠の意味を持っておられるところから過去の七仏から真実を正しく伝えられた。

また大鑑慧能禅師から七仏に真実を正しく伝えたと言う関係でもあり、それ以後の真実を得られた方々に対して、真実を正しく伝えたと言う関係もある。どれが前でどれが後だという関係ではない。

そして単に過去と現在という時間的な前後の問題だけではなしに、釈尊が生きておられた時代にも、あらゆる方角に沢山の真実を得られた方々がおられた。青原行思禅師が生きておられた時代には南嶽懐譲禅師も生きておられた。石頭希遷禅師が生きておられた時代には馬祖道一禅師も生きておられた。お互いに同じ時代に生きておられたと言う事は、お互いに邪魔をして排除しあっていなかったという事であるけれども、それと同時にそれぞれの方々が全く無関係に独立して仏道修行をされたと言う事ではないであろう。



              ―西嶋先生の話―    
    --つづき

では「第二の悟り」がどの程度、重要かと言う事になりますと、「第一の悟り」つまり朝晩坐禅をやる事によって悟りの状態から外れる事なしに日常生活を続けている限り、第二の悟りがあるなしと言う事はそう重要な問題ではないと言えるわけです。と言いますのは朝坐禅をすれば悟りの状態に入る、夜坐禅をすれば悟りの状態に入る。

だから日中の様々な仕事やらその他の活動でたまたま悟りの状態から外れる様な時間があったとしても、夜坐禅をすればまたすぐもとに戻ると言う事であるならば、朝晩坐禅を続けていると言う事は我々の日常生活が常に悟りの中に置かれていると言う事の保証に繋がっている。

そういう状態を続けていく限り、第二の悟りがあるなしという事はあまり大きな意味がない。そして第二の悟りが仮にあったとしても、それで朝晩の坐禅をやめる訳にはいかない。なぜやめる訳にはいかないかというと、悟りは我々の体の状態、心の状態。だから物事の理解の問題ではないからわかったらそれで終りと言う事では決してない。

体の状態、心の状態である以上、第二の悟りがあろうとなかろうと、毎日の坐禅を続けて死ぬまで維持しなくてはならない。こういう事が悟りと言うものの実情だと言う事が出来ようかと思う訳です。そうしてみると、結局は朝晩坐禅をすることが全てだ。道元禅師はひたすら坐禅をするという意味で「只管打坐」と言われた。

道元禅師の坐禅の理解の仕方は「只管打坐」と言う言葉によって表現できるわけです。この意味は朝晩坐禅を毎日やっている限り、それ以上何が要るものかと、こういう主張でもあろうかと思う訳です。第一の悟りと第二の悟りと言う問題に関連して、今述べたような考え方で理解していきますと朝晩坐禅をしていると言う事が仏道修行であって、それ以上のものは何も要らないと、そういう考え方にもなろうかと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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