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正法眼蔵 古仏心 2

「古仏心」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話は続きます。

では心というものはないのかと、こういうふうに考えていきますと、心というものがないわけではないけれども、それを掴む事は出来ない。心があるという唯一の証拠は、我々が眼で様々なものを見るとか、耳で様々な音を聞くとかと言う事実そのものが心と言うものが存在する唯一の証拠であって、そういう日常の事実以外に心というものを別に掴むことは出来ないと、こういう主張がある訳であります。

ですからそう言う点では「古仏心」の巻におきましても、古仏心とはどういうものかという説明された後で、今度は心というものが独立してあるわけではなくて、日常生活で物が見える、音が聞こえると言う事が、心というものが存在する唯一の証拠だと、こういう仏教の基本的な考え方に触れておられる訳であります。

仏教の基本的な考え方というのは、心というもの、つまり主観というものと、それによって見たり聞かれたりする具体的な事物というものとは別々のものではないと。心というものとそういうものとが触れ合ったところに生まれて来るのが現実の世界、法の世界であって、その点では主観と客観とは別々に存在するものではないと言う主張であります。

西洋の思想では主観と客観とが別々にあるという考え方が様々な哲学問題を考えていく一つの基礎を成しておるわけでありますが、さらに哲学的な考え方を進めて行きますと、どうしても主観と客観とが独立に存在すると言う事では中々この世の中の実態が解き切れない。むしろ主観と客観とがぶつかり合ったところに生まれてくる世界が現実の世界だと言う考え方が出て来ざるを得ない。

19世紀の半ば以降、実存主義という哲学が生まれてきている訳でありますが、そういう哲学の中では主観と客観とが一つのものだと言う主張が少しずつ出始めている。仏教が主張する古仏心と言うものが牆壁瓦礫だと、こういう主張もやはり同じ様な立場から説かれていると、こう言う事が言える訳でありまして、その点ではこの「古仏心」という巻も、仏教の基本的な考え方を理解する上においてかなり大切な巻だと、こう言う事になるわけであります。



              ―西嶋先生の話―                              
    --つづき

「悟り」と「坐禅をやる事」との関係がどうなっているかと言う事が、問題の対象になろうかと思う訳です。坐禅をやる事が第一の悟りと呼ぶならば、東坡居士、香厳禅師、霊雲禅師と言う方々の得られたものは第二の悟りと言う事が出来ようかと思う訳です。

私の場合は、18、19才の頃から沢木老師にお会いして坐禅をやっていたわけです。ただその当時、坐禅は毎日やらなければならんものだと言う事を十分には知らなかった。したがって坐禅会などに行って一所懸命やると言う事も何回かあったわけですが、それと同時に自宅に帰って坐禅をやらないと言う時期があったわけです。飛び飛びに坐禅をやっておるうちは坐禅とはどういうものか、仏教とはどういうものかよくわからなかった。

37才の時にたまたま勤務が新潟支店に移ったために、比較的時間の余裕が出てきた訳です。そこで朝晩坐禅を毎日やるという習慣が始まった訳です。当時は確か朝30分、夜30分坐っておったと思います。そういう毎日の坐禅がずっと続きまして、東京に戻って来てからもやはり続けていた。日記を付けておる訳でありませんからハッキリ日時は記憶にない訳ですが、47、8才の頃に、朝ベットから起き上がって着物をつけ始めた時に「このままでいいんじゃないか」と言う実感を持った訳です。毎朝坐禅をする、夜もする。

そうすると気持ちが非常に落ち着いて、目先やらなきゃならない事をセッセセッセとやるだけの極めて平凡な生活であまり波乱がない。これ以上何も求める必要がないんではないか、と言う事を感じた訳です。ですから第二の悟りというのは、毎日朝晩の坐禅が何年か続いて、10年前後も続いた時に、非常に気持ちが落ち着くと言う状態の中で「このままでいいんだ」と言う確信を腹の底から持つと言う事になろうかと思う訳です。

「谿声山色」の巻で説かれているところの東坡居士、香厳禅師、霊雲禅師の体験と言うものも、その様な意味で第二の悟りだと言う事が出来ようかと思います。
                                つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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