FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 古仏心 1

「古仏心」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

古仏心というのは何かと言うと、「古」と言う字は「古今」と言う言葉の中に含まれている「古」という事ができようかと思います。古今というのは昔と今という事でありますが、昔も今も超越した時間と言う事で今日の言葉で言うならば、永遠と言う意味をあらわす場合に古今と言う言葉を使うわけであります。この古仏心の「古」と言う字も、そういう点から永遠と言う意味を持っていると言えようかと思う訳であります。

したがって古仏というのは、時間を超越したどの時代にも通用する真実を掴まれた人という意味が「古仏」という言葉の意味になるわけであります。そこで古仏心というのは時間を超越した真実を掴んだ人の持っている心と、こういう意味になろうかと思う訳であります。この「古仏心」の巻では、その様な永遠の意味を持った真実を得た人の持っている心と言うものを説明しておられる訳でありますが、特にその古仏心と言うのは牆壁瓦礫だと、こういう主張をされている訳であります。

牆壁瓦礫というのは「正法眼蔵」の中にも何回も出てまいりますが、垣根と壁と瓦と小石。つまり「牆壁瓦礫」と言う言葉で道元禅師はごくありふれた目の前に見えるものを指す訳であります。ですからたまたま「牆壁瓦礫」と言う言葉が中国の時代から使われていたために具体的なものを表す言葉として「正法眼蔵」に使われているのでありまして、具体的なものと言う観点からするならば、机、畳、柱、時計であっても差し支えないと言う事になるわけであります。

ただ「古仏心」の巻で道元禅師は古仏心が牆壁瓦礫であると、こういう中国の僧侶の言葉を引用して古仏心の説明をしておられる訳であります。古仏心が牆壁瓦礫であると言う事の意味はどう言う事かといいますと「正法眼蔵」の中に「心不可得」と言う巻があるわけであります。我々は普通、心というものがあると考えていて、見つければ捉まええる事が出来ると思い込んでいるのが実情でありますが、心をどっかで捉まえたい、見つけたいと思っても、そういうものは掴まらないと言うのが仏教の基本的な考え方であります。

                             続く--



              ―西嶋先生の話―

今日は「悟り」と言う問題について多少お話してみようと思います。道元禅師のお考えでは「坐禅することが悟りである」と言う事を「修証一等」と言う言葉で主張しているわけであります。「修証一等」の「修」は修行と言う意味です。「証」は体験と言う意味で悟りと言う事です。ですから「修証一等」と言う考え方は、坐禅する事が悟りだ、と言う考え方です。

ところが「正法眼蔵」の「谿声山色の巻」に東坡居士蘇軾、香厳智閑禅師、霊雲志勤禅師と言う方々の話が載っておりまして、そこで述べられている内容は、いわゆる世間一般で言う悟りと内容が同じではないかと言う疑問が出て来るわけです。そこで「谿声山色」の巻に述べられている悟りと、坐禅の時の悟りとがどういう関係にあるかと言う事を考えて見たいと思います。

東坡居士蘇軾がいわゆる悟りを開いた時点の後で「谷川の水音が釈尊の説法として聞こえる、山の姿も釈尊の姿そのものである」と言う詩をつくっています。東坡居士蘇軾がいかに素晴しい世界に生きているかと言う事に気が付いたという意味です。また香厳智閑禅師は、山の中に庵を作って一人で生活をしていたある時、道を掃いていたところ小石が飛んで竹の幹にあたり「コツン」と言う音を立てた。その音を聞いた時に、いわゆる悟りを得たと伝えられている。その時「自分の日常の動作と言うものが、過去における先輩方と同じ様な状態になって、しょんぼりする事がなくなった」と言う詩つくられた。

我々は日常生活の中で色々な事を得たいと努力するわけですが、中々それが得られない。そうするとしょんぼりするわけです。仏道修行で言うならば、悟りがあると信じて一所懸命努力してみるけれどもどうしてもそれが得られない。そうするとしょんぼりしてしまう、そう言う事があるわけでありますが香厳智閑禅師の述べられた詩の中では、しょんぼりする事がなくなったと言われているわけです。

ですからその場合にも、香厳智閑禅師が朝晩坐禅をやっているならば、それ以上何を求める必要があろう、これでいいんだという確信を持たれたと見る事が出来るわけです。それから霊雲志勤禅師も、いわゆる「悟り」を開かれた時「直接現在の瞬間に生きていると言う事を自覚して疑問を持つ事がなくなった」と言う詩をつくっています。霊雲志勤禅師の場合にも「現在の瞬間に生きればいいんだ」と言う事に気がつかれ、様々な疑問を持つ事がなくなったと、こういう表現になるわけす。この様な事例と言うものはいずれも、我々の生きている世界そのものを、ありのままに肯定すると言う考え方に繋がる訳です。
                             
                                つづく--


ご訪問ありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-