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正法眼蔵 空華 31

慧徹禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

この様な事情というものをこの石門山の慧徹禅師だけはさすがに知っていた。我々の人生の一切のものは、初めも、中ごろも、終わりもすべて現実にこの地面に根ざしたものでしかないと言う事である。この様に我々の問題の捉え方が現実そのものに根ざしているまさにその瞬間においては、一切の問題、一切の現実というものは我々が立っている大地から生まれて来るのであり、大地から始まるのである。

我々の住んでいる世界の中で真実とは何かと言う事を求めないわけではない。しかしどういう方法があって真実が得られるかと言う問題ではなしに、我々の生きている世界そのものが真実そのものの世界であり、どう言う方法でなければ真実が得られないと言うふうな性質のものではない。

現実の我々の日常生活の中から生まれて来る架空の事態や抽象的な論議とか、実在するかどうかはっきりしない現象と言うものがあり得るし、またその様な抽象的な論議、あるいは眼に見える単なる現象から生まれて来る具体的な生活、大地に足を踏みしめた実体もあり得る。

この様なところから承知しておかなければならないことは、抽象的な論議、あるいは実在するかどうかわからない現象と言うもの(空華)は、我々の具体的な日常生活からも生まれて来るし、また空に考えるところの様々な思想、あるいは感覚的に捉えられる現象と言うものからも生まれて来るものであると言う基本的な原則があるのである。

             「正法眼蔵空華」
             1243年 旧暦3月10日
             観音導利興聖宝林寺において衆僧に説示した。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師のおっしゃることはすべて、一つの言葉で言えば簡単に済むけれども、こっちから見た場合、あっちから見た場合の両方の見方で説明するというか、かえってそのためにややこしくなっているなという事を非常に感じるわけです。

先生
ただね、ややっこしくないと実体がつかめないんです。だから四諦の立場で順を追って考えていくとわりあい分かりがいいんです。そのことはどういうことかというと、たとえば最初の段階では、人間がものを考えるという事がありますよね。そうすると、とてつもなく思想というものが複雑に発展していて、様々の思想があり得るわけですけど、実在との関係で見ると空なものだという捉え方があるわけです。人間がどんなに考えても、実在と無関係かもしれないという思想としての儚さがあるわけです。

それから二番目の段階では、今度は逆に、人間というのは感覚があるから、目で見えるものとか、耳で聞こえるものとか、舌で味わえるものとか、いろいろな楽しみがあるわけです。ただそういうものが本当の実在かというと、これも頼りにならない。だからそういう点で、最初の段階と二番目の段階では「空華」という考え方が出てくるわけです。

三番目の段階では、日常生活で一所懸命やっている実情からするならば、「空華」などというのんきなことは言っていられない。「空華」かどうかはわからんけれども、とにかくもうそんな理屈を乗り越えて、夢中で生きなきゃならないんと、そういう実情でもあるわけです。そういう実情というものがわかって来ると、一番最初の頭で考えた事の意味もはっきりしてくるわけです。

というのはどういうことかというと、限界があるという事を承知しながらも、頭で考えた事はそれなりの意味があるわけです。それから感覚的な儚いものだとはいってみても、やはり一定の時点で与えられた感覚というものが紛れもない実在だというふうな、我々の人生における具体的な場面というものもあるわけです。そういうものを全部ひっくるめて現実があるわけですから、そういうものを全部切り離した形では現実そのものがわからないわけです。

そういうものを全部取り込んだ状態が現実という事になる。それをどうして味わうか、掴むという事になると、まあ坐禅という事になっていくわけです。たいへん我田引水で恐縮なんですが、しかしやっぱりどうしてもそういうものを総合的に全部とらえて味わうために一番具体的な方法というと、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っていることだと、こういうことになるわけです。

だからそういう点では、「空華」の問題にしても、やはり四段階の考え方でいかざるを得ない。だから道元禅師はやはりそのことを頭においておられるから前の行で言われた事と反対の事を直ぐ言われるわけです。なぜそういう事を言われるかというと、我々の生きている世界というのはそういうものだ。一面的に考えて「これだ!」という事で割り切れれば、そういう複雑な考え方はしないで済むわけです。ただ一つの考え方だけで、「これで全部いけるんだ」と考えていると、我々の人生というのは必ずと言っていいほど間違うんです。

だからこの我々の人生を間違わないためには、様々な複雑な立場で、いろいろな角度から勉強していかないと、真実がわからないという実態があって、そのことを釈尊が説かれたと、こういうことになるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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