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正法眼蔵 空華 30

大宋国における石門山の慧徹禅師は梁山縁観禅師の門下における長老であった。

ある時、僧侶が慧徹禅師に質問して言う:一体どのようなものが、寺院内における最高の価値でありましょうか。

慧徹禅師答える:実在するかどうかわからない現象(姿)や仏教上の抽象的な論議は我々が生きているこの大地を基盤にして、現実の生活の中から生まれて来るものであり、また国全体というものを捉えようとしても入口がどこにあって、何処から入れば行き着くというものでもないと同時に、入口そのものが存在しないのであるから、どこの場面においても真実は得られるという実情でもある。

慧徹禅師と僧侶の問答について道元禅師が注釈されます。
この僧侶の質問は「真実を得られた方々とは一体どういうものでありましょか」と質問するのと同じであり、「真実とは一体なんでありましょうか」と質問するのと似ている。慧徹禅師の言葉は決して他の人々の言葉と同じ様に考えて、それらと並べて比較すべきものではない。

世間一般では空華(実在するかどうかわからない現象)を論ずるにあたっては、それらはあくまでも抽象的な実在しない問題を終始論じていると考えて、その様な問題は架空の場面に生まれ、架空の場面で消滅していくものだとばかり主張する。その様な問題が架空のところから生まれて来ると言う事を知っている人物は未だかつていなかったし、まして我々の現実の生活から生まれて来ると言う事を知っている人は非常に少ない。



              ―西嶋先の話―    
    --つづき

もういても立ってもいられないほど悔しがると言う人がいるわけです。その反面そういう問題は全然問題にしないで、自分は駄目だ駄目だとばかり思っている人がいる。そういう人は性格は非常にいいのだけれどもそのかわり多少だらしない。だから世間の人と付き合っておっても、わりあい他の人に迷惑をかけると言う場面もままあるわけです。ところが仏道はそういう優越感を洗い落とす、仏道はそういう劣等感を洗い落とすと言う事がねらいと言う事になるわけです。

だから仏道修行をし坐禅をやる事は偉くなると言う事ではない。そうかといって駄目になる事でもない。本来の自分をつかむと言う事が仏道修行、坐禅をやる事のねらいと言う事になるわけです。ですから臨済禅師は仏道のねらいと言うものを「無位の真人」と言う言葉であらわした。無位というのは位がないと言う事。偉くもない、駄目でもないところの本当の人間になる事が仏道のねらいだと。

そう言うところから「無位の真人」という事を言われた。仏道修行というのは偉い人になる修行でもないし、駄目な人になる修行でもない。本来の自分自身に立ち返ると言う事が仏道修行のねらい。そういう事になろうかと思うわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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