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正法眼蔵 空華 25

至真禅師と霊訓禅師の問答について道元禅師が注釈されます。

ここで至真禅師が言われた「自分の眼が必ずしも頼りになるものではなくて、ひょっとしたら自分は見間違いをしているかもしれないと言う意識を持つ事が出来るならば、実在するかどうかはっきりしないような幻影というものは全て消えて、はっきりした実在だけが見えてくる」という言葉は仏(真実を得た人)としての実体を具えている人の言葉である。

このようなところから見てくるならば、自分の眼は不確かかもしれないと言う意識を持ち、実在するかどうかわからない現象が全部消えてしまう事が真実を得られた方々と同じ様な性質が具体的に現れてくる事である。真実を得られた方々と同じような実体が現実に現れた状態に異ならないのである。

眼に関連しても、それが完全なものではない、ごく一部の限られたものしか見えないという言葉がわかって来て、実在するかどうかはっきりしないものを「ある」と見る事もあり得るとわかって来ると、その様な状態の成果が現れて実体が見られる様になり、その様な実体が見える様になった事が真実を得られた方々と同じ様な実体を保持している事になるのである。

自分の眼が間違っているかもしれないと言う意識を持つ事によって、初めて眼が本来の機能を発揮するのである。眼に見えるものは本当に実在するかどうかわからない姿が現れているに過ぎないと具体的に理解し経験する事が実情であるし、実在するかどうかわからないこの世の姿の中に、眼と言うものの実体が具体的な姿を現して来るのである。



              ―西嶋先生の話―

私たちは普通、自分を反省してみると大抵の場合二人いる。たとえば「いいことをしなきゃあ」と自分に言い聞かせる自分と、「いや、それは辛いから、まあやめておこう」と言う自分が二人いる。大抵の人が自分の中に二人の人間をもっています。「これをやりたい、あれをやりたい」と言って、いろんな希望があるけれど「まあ辛いからやめておこう、忙しいからやめておこう、疲れるからやめておこう、損するからやめておこう」と言うふうな二人の自分がいる。

そして、その二人の自分がいつも争って、どっちつかずのうちに時間の経ってしまうのが私たちの普通の人生。ところがこれは普通の状態ではない。仏道修行とはどう言う事かというと、自分の中にあるこの二人の人間がまったく一つに重なってしまうと言う事、これが仏道修行のねらい。だから、仏道修行の結果としては、やりたいと思う事がすぐやれる様になり、やりたくないと思う事はやらないで済ます事が出来る様になる。仏道修行というのはそういう人間になると言う事に他ならない。

だから坐禅というものはどういうものかと言うと、二人の自分を一人にするという修行。手を組んで、足を組んで、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っている状態そのものが、第二人のない状態です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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